
ヨーロッパに幽霊が出る――睡魔共産主義という幽霊である。
ということで、最近、睡魔に襲われた。「眠いな、眠いな」と思っていたら、知らぬ間に肩に睡魔が乗っていた。
なぜか睡魔のイメージといえば灰色の猿で。それってば、なんだか文学的。
参考:ノルウェイの森と金の猿 ~100%村上春樹ヴァージョン~: 激しい眠りと灰色の猿、16の次の数は41?
「16の次の数は?」と誰かが訊いた。
「41」と僕は答えた。
「眠ってる」と灰色猿が言った。
そう、僕は眠っている。
固い固い鉄球の中で僕は体をくるりと丸めてリスのように深く眠っている。
いずれにせよ、睡魔は灰色の猿だろうと、黄色のワニだろうと、眠いものは眠い。つまりは、べらぼうに眠いのだ。
大体年に数度くらいやってくるそのヘビィ級の眠気。ドメインの更新頻度よりもずっと多い睡魔のレター。それこそフックを顎にもろにもらったボクサーのように、足腰はぐらんと。あるいは脱水症状の箱根駅伝選手。
いずれにせよ、そういうものが、たまに体にのしかかる。そうなると、もうどうも対応ができない。何をしていても眠い。
運転していようが、ロマンスを繰り広げていようが、あるいは、勉強していようが仕事をしていようが、おかまいなく。
大体一週間弱続き、コアの部分は1日くらい。その1日はもう何をしていても寝ていてしまう。たっていても、座っていても。
そんな時は、寝るに限る、と人は言うけれど、世の中は眠い人に優しくできているわけではない。納期もくれば客人もくる。あるいは運転していかなくちゃいけないところだってあるだろう。そんな時には、ドリンク剤で、あるいは刺激臭で、はたまた爆音音楽で、なんとか眠気をしのぐ。まるでインフルエンザにかかった小学生のように、ふらつきながらヨーグルトをほおばりながら。
何かで読んだけれど、山本バナナ(作家)さんは、学生のころは毎日10時間以上寝ていたのだとか。そして大人になって急にあまり眠らなくなった。そしてその頃を思いかえして「そのころは眠って何かを蓄えていたんだ」というようなことを書いていて。ふむ。そんなものか、と思ったりもした。
いずれにせよ、睡魔は知らぬ間に忍び寄ってくる。
周期の睡魔だけでなく、短眠が続いた時も睡魔はちゃんとやってくる。たまった睡眠の債務の取り立てのように利子までとってきやがりまんもす。
1日くらいの徹夜ならまだしも、2日徹夜をすると、どうもその週は睡魔がまとわりついてきていけない。ぐっと利子分の眠気が体に重くこびりつく。
今後一生、こやつと一緒に生きていかないといけないと思うと、なかなかうんざりするけれど、いなくなったらなったで寂しいものなのだろう。
睡魔ショック(周期的睡魔の襲来のこと)の時の睡眠に負けて眠ってしまった後の、罪悪感は計り知れないものがあるけれど、同時に、その恍惚さは魔力的でもある。もっともそれってば罪悪感の表裏一体、つまりいわゆるところの「羞恥と快楽の相関関係」なのかもしれないけれど、なんだか、頭がとろけたようになって、なんとも言えない。
蛇足だけど、敬愛する筒井康隆氏は、「眠らなければいけない」体質だそうで、そういう体質の人もいるそうで。そういう人たちは10時間や12時間は平気で寝るそうで。寝ないと効率があがらないのだとか。
睡眠ってのは慣れだとは思うのだけれど、「太らない人」「汗をかかない人」がいるように「眠らないといけない人」というものが世の中にいたっておかしくない。
それこそ、睡眠の取り方というのは千差万別で。横になってから、1時間は眠れない、という人もいれば、どこででも寝れるという人もいて。私はどちらかといえば後者で、立ってでも平気で眠れる。飛行機でも、座った瞬間にベルトを締めて寝て、起きたら着陸していたということも珍しくない。いすの上で寝るのもなれて、一時期はずっといすの上で寝る生活を送っていた。それこそ旅行中なんかはバスでとる睡眠だけを唯一として一ヶ月ほど生活していてもなれた。睡眠自慢にもならないけれど、なんというか睡眠への造形はそれなりに深い。
でも睡魔との関係性だけはいつまでたってもうまくいかない。こいつをハンドリングしようとしても、いとも簡単に檻から飛び出して、睡魔パウダーを振りまいて。
なんともかんとも言えないけれど、やっぱり憎めないのが睡魔なんだろう、と。