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2006年08月28日
夢見る頃を過ぎても

遠く、それも遙か遠く。
ずっと遠くで汽笛の音がする。
長く、ずっと永く響く音。
悠久たる大地に染み渡るような重厚な響きだった。
どこの街で私はその音を聞いたのかを
はっきりは覚えていない。
イスタンブルと思ったのだが
スーダンだったかも知れない。
しかし、スーダンには汽車は走っていないので気のせいかも知れない。
いや、寧ろどこにも汽車なんて走っては居なかったとは解かっている。
ただ、ふと、あの朝焼けの中で、虚ろな目覚めの中で聞こえた
汽笛を思い出す事がある。
慌しい日々に追われると、その音は
ふっと私の耳に蘇ってくる。
そして、きまって私は旅情をかきたてられる。
ウガンダの首都、カンパラから私はルワンダの
キガリに向かっていた。
そのバスには当然、現地の人々しか乗っていなかった。
たまに止まる休憩所では、とうもろこしが美味しそうに焼かれていた。
そして油にまみれたドーナッツを売り子がバス内に売りに来る。
バスは、国境で止まる。
国境が開くまで私は近くの宿で夕食を取りに出かけた。
どしゃぶりの雨が降っていた。
この国に知り合いは当然誰もいない。
ある国で、自分を知っている人が誰もいない、
という上に雨という事実は、何かしら自分が踏みしめている大地を
やわらかくした。
その上に、私が今ウガンダに居ることさえも誰も知らない。
完全に孤立した自由。
ルワンダでは言葉でさえも通じない。
食事さえもままならない圧倒的過ぎる程の孤独感。
そして、翻して、何からも放たれた自由。
その両面であえぎながら、私は国境でパスポートを提示する。
雨が降りしきる。
客が誰もいないうらびれたレストランでは
バナナとご飯の混ぜた料理が出される。
メニューなんて当然ない。
虚ろに壁を眺めながら、私はそのバナナをスプーンで救い上げた。
そして、再度スプーンを下ろした時に
圧倒的な恐怖が自分を支配した。
気を抜いては消えてしまう、と。
アフリカでは死はいつも身近だった。
あるいは逸脱への道は、常に冥土への道として開かれていた。
事故、事件、ゲリラが横たわる危機として身を取り巻いていた。
もし、スリに現金を盗まれれば、言わばウィルス対策ソフトをせずに
アングラサイトを見るような世界に突入する。
ホテルの部屋の鍵なんて何も当てにならなかった。
シャワーさえも浴びたくなかった。
パスポートと金だけが自分を身を守るものだった。
マリファナや買春、注射器が観光客を取り巻き、
いつも冥府はドアを開けて待ってくれていた。
日本人と会わなくなってから数週間となり、
名もわからぬ食べ物を食べ続けて数ヶ月になり、
地図さえもなかった。
ただバス亭で目的地を叫ぶしか方法はなかった。
ぼったくられようが、間違われようが、何だって良かった。
少しでも道の先に進む事が重要だった。
立ち止まってしまえば消えてしまう。
電話もできずインターネットという言葉さえも忘れ、
そんな時に、唯一自分を現世と繋ぎとめていたのは
書く、という事だった。
ひたすら書いた。エジプトで買ったノートに
徒然もなく文字を書きなぐった。
その時の私にとって、まさに書くことは生きる事だった。
大げさではない。
あまりにも巨大で広大で深遠な自由と孤独の前に
個人はあまりにも無力だ。
ただ言葉だけは、その世界を切り取る力を持っている。
剥ぎ取り、削り取り、理解しうる為の武器だった。
金とパスポートが防具ならば
持つべき武器は言葉だった。
旅よ。
嗚呼旅よ。
青年よ、淑女よ。
書を持って街へ出よう。
村上は「神の子たちは皆踊る」でこう記述した。
「火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ているほうの心次第で何にでも見える。
順ちゃんが火を見てひっそりとした気持ちになるとしたら、それは自分の中にあるひっそりとした気持ちがそこに映るからなんや
それは火だけではない。
旅も同じ事だ。
旅も人によって見る景色は異なる。
そして、見える世界も異なる。
それは、貴方/貴女の心情を映す反面鏡となる。
そして鏡に映ったその世界を自分に取り返す、という作業が
書く、という事なのだ。
ルソーは言った。
恋文を書くには、何を言おうとしているかを考えずに書き始めよ。
そして何を書いたかを知ろうとせずに書き終わらなければならない。
それは恋文だけに限らない。
いや無論。
勿論、論文や企画書をそのような無鉄砲なチキンレースで書いてしまえば
大事件になるのは火を見るより明らかに業火に包まれる。
しかしある場合においては
何事も考えずまず書き始めなければいけない。
シュールレアリスムの手法で、実際、そのような芸術が存在する。
確か筒井氏が卒業論文でも手がけたはずだ。
#今ざっと調べたら「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作 心理の精神分析的批判」だった。
つまり、無意識下の何かを水面から引きずり出すには
意識をせずに手の赴くままに書かなければいけない。
これは文章だけではなく、アート等でも使われている用法だ(確か)。
現在では臨床心理学でも使われている。
有名な所では、映画アルマゲドンでそのシーンがあった。
蛇足だが、何度か書いたが
私のブログは基本的に見切り発車で書き始めているので
いつも論理性が破綻している。言い訳だが。人の言葉やエントリーに
影響受けて書く事が多く今回も、多分、3人のブログのエントリーや言葉に感化されている。
かなり無意識下の辺りで。
まぁどうでも良いけど。
これは聞き古された話題ですが、毎日の話題なのです
by William Shakespeare
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2006年08月21日
予定調和な女

昨日市ヶ谷で友は言う。
予定調和な女が多い
至極明言。
世界とは予期せぬ言葉を求めている。
不協和音や破綻ではなく、嫌、或いはそうなのやも知れぬが、
寧ろ、不得容量に潜む夢が求められている。
世界は虚ろ常ならぬ故に、邯鄲の夢故に
そこに浪漫を求めうる。
ポーカーで言うならばツーペアのCall
麻雀で言うならば平和一盃口の面前
チェスで言うならばクイーンでクイーンしチェックする様な
そんな手慣れたものは要らぬのだ。
対で杯を傾ける時にはゲド戦記の話は無用なのだ。
そして市ヶ谷で誰かは云う。
近頃、良き男は恋人持たぬが潮流と。
はて、と左脳を擦り瞼を閉じる。
周りを見ると確かに。
長髪の君は春に新しい道を選び、永沢の君は常なる女持たず。
眼鏡の君は今夏に別離を選び、同期の友は先月道を別とした。
そして新しい道に八黒目指す君と六九を目指す君。
そして至極最近分かれた君。
勿論、仲睦まじく暮らす君も要るけれど、
彼らは孤の道を選びたもう。
さてはて。
上記を私自身が賛同するかは別の話としても
非常に興味深い話だと心得た。
其処でポートフォリオ、といふ物を想起する。
彼らが人生のポートフォリオを組んでいるのではないかと考えたからだ。
ビジネス、プライベート、時間、夢等のポートフォリオの結果、彼らがそこに居る。
ポートフォリオとは言わば、「卵は一つのバスケットに入れるな」と箴言。
卵を1つの入れ物に入れて居ると、其れ落とした時に卵は全て割れ砕け散る。
其のリスクを回避する為に、卵は色んなバスケットに入れて置いた方が良い、と。
それを株で云うと下記となる。
ポートフォリオとは - はてな
互いにリターンの相関が低い資産を組合わせて保有することで全体のリスクを低減できる、というのがポートフォリオ理論。
これは人生のどの局面でも言える。
例えば受験。
世界史に関して、唯、戦後史を学ぶのはリスクが高い。
30年戦争を学び、漢の時代を学ぶ訳で有る。
更に解かり易いのはルーレートであらう。
oddだけに掛けずRed/Blackにも賭けるが資産分散である。
さすれども逆に「ここぞ」という時に張らねばならぬ事もある。
例えば就職活動での面接。
10の体験を言うよりも、絞った方が良いと言う。
つまり、其処には時間といふモノの制限がある故に。
時間という制限があれば試験も話が変わる。
30分しかなければ不定冠詞のような厄介なモノに手を付けるよりも
単複同数の単語を片端から頭に叩き込んだ方が良い場合が多い。
また、逆に「冬の時代」の越し方も存在する。
ツキが落ちている時は、その風雨を避けなければならぬ。
黙って耐え偲ばなければならない。
ポーカならばツーペアでもDropせざるを得ない時もある。
麻雀で言うならばイーシャンテンでも降りる時は降りる。
ゴールデンクロスが見えても売らねばの場合はある。
ラブホまで入っても生理になる事はある。
目覚ましかけても鳴らない事はある。
そのような厳冬の時代は、
じっと耐え忍ばねばならない。
そしてツキが回ってくるのを待つ。
そして、「ここぞ」と言う時に全てを張る。
その時までじっと耐えるのが重要なのだ、と。
しかし、この考えはポートフォリオ分散している場合には起りにくい。
無論、アベレージが凹んでいる時は、この事態は起りうるが。
ここで最初の話に戻る。
恋人持たぬ彼は、冬の時代か、あるいはポートフォリオを組んでいるのか。
もう一度最初の言葉に戻る。
「世界は予定調和なんて求めていない」
つまり、リスク分散する人生は賭博師として詰まらない、と君は言う。
機内で阿刀田高の本を読んでいると、丁度かのような話が出てきた。
今が賭ける時、そのタイミングを見誤らない事が肝要だ
そして今日。白川道の本でこのような言葉を目にする。
「恥をかくのは一回と決めている。付き合わないか」と。
「一回口に言ってだめだったら、二度とは誘わない」
経験則から言うと、このような博打は
単なる合理性の追求でしかない、と思うのだけれど
自身への戒めとしての言葉ではなく
事前にこう宣言して行う言葉ならば、
それはそれで互いを縛る何かがそこにはあるのだろう。
一度、口に出した言葉は二度と取り消す事が出来ない。
覆水盆に還らずという言葉は、まさしく言葉に於いて生ずる意味ではなかろうか。
村上は言う。
「ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。
口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ
ネガティブな言葉の吐露も
あるいは、アグレッシブな言葉でさえも
それは一度世界に放たれると籠に戻る事はない。
言葉にするってのは全身全霊を賭けた「きった張った」の世界なんだ、と
改めて思った。
坂口安吾は言った。
あちらこちら命懸け
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2006年08月15日
距離と郷里と矜持

大阪に居る。
お盆という事で郷里に戻っている。
今や大阪には新幹線で帰るよりも飛行機の方が
速くて、時には安い。
去年のお盆はバイクで帰って切符を切られた苦い思い出がある。
あの暑い中の二輪車は拷問だ。
そのバイクも半年前に同じく大阪から東京までの往路で
お釈迦になってしまった。
空港で「東京バナナ」を買い込んで、新作という「東京イチゴ」を
買い足した。
機内はお盆で満席で加えて落雷でフライトは順延だ。
関西空港からは南海線とJR阪和線の2本が走っている。
阪和線に乗り、いつもの駅で降りる。
中学生の頃は、この駅に張ってある「そうだ、京都行こう」のポスターが
欲しくて、もらおうとしたけれど貰えなかった。
それでも京都への愛執は欠かした事はない、多分。
そんな駅前のロータリーは満面の大阪の匂いがした。
久々に運転する車の快適さに恍惚を感じ、
ささやかな渋滞も気にならない。
助手席に乗る父は居眠りをする。
ガムを噛みながら、ラジオから聞こえてくる70年代の民謡に鼻歌う。
たった数日だけれども、
久々の実家は、なんと静寂に包まれた世界か、と
驚きに値する。
部屋の窓からは一面の古墳の緑と、
まさに「宇宙直結の(C 三浦しをん)」青空が広がっている。
蝉の声だけが部屋を満たし、
もはやipodでさえも居場所はない。
空気が違う。
葛城山からの風はひんやりというよりも
少し乱暴に部屋の風鈴を鳴らす。
丁度、海辺のカフカに出てきた森小屋の様な。
本当の静寂というものは耳が痛い。
それは静寂というものに我々が慣れて居ないからだ。
耳鳴りのような、静かな音が脳髄を揺らす。
こんな静かな環境で、夜風が心地よい場所ならば
いくら作業がはかどるだろう、とふと詮無い事を考える。
海も良いけれど山も良い。
そして、自然が須らく良いのである。
インターネットに繋がる事を躊躇してしまう程の静けさで、
キーボードを打つ事さえも躊躇してしまう。
静けさだけが支配する街の深夜に
夜風に吹かれながらポストカードに筆を滑らせた。
自分の生活圏より地理的距離が離れると
何かしら寂しさが襲う事がある。
誰かに電話しようとも考えるけれど、
自分が今居るあまりにも静寂な世界の中で、
東京の喧騒に包まれた人々に電話をかけるのは、
何かしら不合理な気がした。
従兄弟の子供達に会った。
子供達が可愛いのは、
「可愛くなければ可愛がってもらえない」からだ、という話を聞いた事がある。
つまり可愛くなければ、飯ももらえないし世話もしてもらえない。
つまり生き残る為に子供たちは可愛くなった、という言説がある。
勿論、これはある種のトートロジーを前提としたjorkingなのかも知れないけれど、
子供達を見ていると、あながちそれは嘘ではないように思える。
部屋には、祭囃子の音が聞こえてきた。
盆踊りだ。
風情がある、と言えばそれだけの話。
その1行で終わってしまう話。
深く考えるならば、郷里に根ざした数十年、あるいは数百年の歴史を持つ
「文化」が、この時代にも生き残っている事に驚きを隠せない。
風に揺らめく漁り火を思い出させる。
だんじりの季節まであと数ヶ月。
お盆が終わると、街は、あるいは村は俄かに色めき立つ。
太鼓と笛の音が街中に響き渡る。
体力づくりに軽トラをひっぱる青年団の人々が
往来を駆け回る。
祖母と祖父の墓参りをする。
灼熱の太陽に照らされても
墓石は、じっとしたまま動こうとはしない。
線香の匂いが墓場に似合う花を舞う蜂を取り巻いて、
かろやかに唱えるお経の声は
いつまでも変わらない風景に思える。
きっと100年経っても、この風景は同じように
郷里に毎年繰り返される風景なんだろう、と
携帯メールを打ちながら考えた。
妹が買って数ヶ月のパソコンのプリンタが壊れたという。
しょうがないので、彼女の部屋に行く。
「時間*千円な」と呟きながら。
いつまでも小学生のように思っていた妹も、もう大学生。
パソコンなんていうハイカラなものを使うようになった。
ポートの設定をしなおし、プリンタは小気味良い音を立てて
紙を排出する。
「起動するのに時間がかかるんやけど?」と、厄介な問題を投げられて
「買い換えたら?」とお茶を濁す。
愛犬のスモモは暑さにうなだれ、不機嫌そうに片目を開ける。
久々の私には、愛想程度の舌を出す。
尻尾を振ってくれても良いのに、と思いながら
彼女には彼女なりの事情がある。
生きとし生ける者は皆、必死で生きているのだ。
カワウソだろうとオニヤンマだろうとビーバーだろうと。
おかんがお好み焼きを焼いてくれた。
あまり肉を好まない私の為に
海老が大量に入ったお好み焼きだ。
三枚も食べれば気分が悪くなってしまった。
青海苔、芥子、鰹節。
お好み焼きは羅針盤、活版印刷術と並ぶ世界の三大発明の1つ。
そして、麦茶をぐびぐびと喉に流し込む。
さてさて、今日は戦場に戻らなくては。
Let's Roll
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2006年08月12日
すごい恋愛

さて、久々にすごいシリーズ(適当)。
今回は、恋愛編。
・すごい就職活動 1
・すごい就職活動 2
・すごい就職活動 3
・すごい彼氏をつくる方法 1
・すごい彼氏をつくる方法 2
・すごい彼氏をつくる方法 3
・すごいデート 1
・すごいデート 2
・すごいデート 3
・すごいラブホテル 1
■前おき
いやね、わたしが言いたいのではね、すごい恋愛っつーか、スロウな恋愛なわけですよ。やれLOHASだのBOBOSだのボボコだのバマコだの言ってますけどね、で、スローフードから、次はスローセックスなわけですよね。遅漏万歳だと、そういうわけですか?んと、で、純愛ブームだった昨年。世界の中心でホゲホゲとか、ほげほげの中心で愛を叫ぶとかね。で、それらを勘案するとわたしは思うわけですよ。そろそろスロウな恋愛が来るのではないかと。ええ。ということで、スロウな恋愛について叫びたいと思うわけですよ、いいですか。というのも、なんでこんなこと思ったかというとね、お前ら獣かと、こう言いたいわけだ。やれ「はめた」だの「半分はめた」だの、合コンいきゃ評価基準が「2回はヤレル」だの「Fなら良いかな」だと、どういう了見かと。あるいはセックスフレンドって、それどういうフレンドかと。日本語訳すれば性交友達なわけですよ。ああ赤面。はれんち!なんと破廉恥!酒のんだらやれアオカンの妙味だの性病のデカダンスだのと。世界は下半身で出来ているわけですか。あるいはトルコ椅子で出来ているわけですか。どうでもいいけど風俗トライアスロンっていう言葉を始めて効いたのは18歳のときなんだけど、ソープ、イメクラとあともう1個なんだったっけ?とか思うわけですけど、個人的には風俗がお好きではないのですが理由を考えてみると、もごもご。で、話を戻すと重力ピエロで春は言うわけですよ。ええ。「人間が性的なのはわかるんだ。必要なことだからさ。俺はそれが嫌だっていうんじゃないんだよ、兄貴。ただ、世の中からセックスが消えた途端に、人生が終わってしまうような奴らが大嫌いなんだ。普通の生活を次のセックスまでの穴埋めとしか考えていないような男は多いよ。多いし、醜い。作家や哲学者がね、セックスや暴力の話をして、さも自分は氷魚の上にいるような顔をしているのも大嫌いだ。そんなのはアフリカの草原でガゼルの子供を食いちぎっているライオンに聞かせたら鼻で笑われる。『セックスと暴力、ああ、あれね』ってさ。『そんなことは知ってるから、もっと面白い話を聞かせてくれ』俺が野生動物なら絶対そういう」と。いいこと言った。確かに、最近の流行作家は何かあったらセックスセックスセックスだ。W村上さんの本にも多いし。勿論それを非難するわけでもないけどね、そこの必然性は何によって担保されるのかと?ちなみに筒井さんは「残像に口紅を」以外では濡れ場を欠かなかった覚えがるだが、まぁ、それは蛇足。で、つまりはそうですよ。こないだの飲み会でも出た話だけど、女が集まれば男の話ばかり。で、逆もまた然り。Vice Versaヴァイスヴァーサですよ。こういう時にヴァイブレータと発音似ているね、と突っ込む野郎が居るから話はややこしくなるわけで「突っ込む」違いだよ、と上手いこと言っていんじゃないわけですよ。ええ。ほんとに。セックスがそんなに重大なものなら、風俗はノーベル平和賞もらえと。ほなあれか。オナニーは禁忌なわけか。ちなみに近親相姦がタブー視されたのは遺伝子の関係からというけどほんまか。あ、オナニーが禁忌にされたのはあれだ、労働力が低下するのを恐れた資本家がそういう風説を流布したという噂を聞いたことがある。まぁええわ。えと、何がいいたいか忘れたわボケナス。どうでもいいけど、ボケナスって良い罵倒語のような気がする。さらに蛇足だけど、筒井さんの短編で前編罵倒語だけで創ったという神業の物語がある。蛇足を二回蛇足すれば本筋に戻るのかしら。裏筋だったりして、なんちて。ああ、スロウな恋愛、スロウな恋愛ね。はいはい書きますよーっと。
■出会い
スロウな恋愛に必要なものは、まず出会いである。はじめに出会いありき。扉を開けずに閉められないのと同じように。さよならだけが人生さ、花に嵐の例えもごにょごにょと言った故人もいましたが、まさしくその通り。出会いがありきの話。で、スロウな恋愛だから、出会いもコンパとか紹介とかSNSとかそんなのは悉くNGなわけです。スロウな恋愛にふさわしいのは、古典的出会いですよ。そう。「ハンカチ落ちましたよ」ですよ。ええ。それしかない。ということで、スロウな恋愛を始めるには、誰かがハンカチ落とすまで待ちましょう。終わり。とすると話が続かなくなるので、exceptionも認めることにしよう。世の中に例外のない事例はない。ちなみに、行き止まりのない道もない、すべからく。で、例えば、ローマの休日にならって、ベンチで寝ている女/男の方でも探しますか?ちなみに、そんなので見つかるのは泥酔したどこぞの大学生か、ネジの外れたぱーぷりンのビッチ(c 友人)しか見つかりませんぜ。ということで、じゃあ、「プリティウーマン」のように街中で立っておられる方を探しますか?フッカーをハイジャッカーして、ファッカーになるわけですなご愁傷様。まぁそのオプションを認めるとしてもリチャードギアのような容姿とマニーがひつようなわけでいささかハードルが高いわけですよ。じゃあ、どう出会うかと。他にスロウな恋愛が似合う出会いってば、あれか。同窓会での再会で、やけぼっくいにほにゃららって奴ですか。まぁ、確かに10年の月日を越えての再会ほげほげってのはスロウで良いかも知れないですね。ええ。でも、まぁ、そんなねんがら年中同窓会しているわけでもないしねえ。やはり偶然の出会いが面白いのかもね。スロウな恋愛としては。なんか偶然を待つってのがスロウじゃないですか。どんだけ待つねん、と。しかし、待つにもプロアクティブな待つというのがあって、いわばカンチャン待ちとか、宮田君の伝家の宝刀電光石火のカウンターとかね。あれは待ちは待ちでも受動的な待ちではなくて能動的な待ちなわけですよ、ガイル待ちはNGね。あれはずるい、aswellasで名古屋撃ちもNG。つまり言いたいのは街を徘徊してみればどうだろうか。1日20時間くらい、渋谷とか銀座とか原宿とかを歩き続ければ、なんか偶然の出会いとかもあるんちゃうん?しらんけどな。
■出会い~友達まで
ほな、出会ったとしようさ。で、その後や問題は。ここがキモや。よし出会おう。出会ったと。で、どう「恋愛」まで持っていくかや。スロウでいかなあかんで。スロウなわけやから、誕生日とかいきなり聞いたらアカン。誕生日に向けたなんかの伏線やと思われるやんか。あと中国では風水の関係で誕生日聞くのはかなりプライバシーに突っ込む世界って聞いたけどほんまかいさ。で、血液型もきいたらあかん。困った時に輸血してくれる人か探られていると思われるからな。フルネームもあかんで。SNSやGoogle先生で検索かけられると思うやろ。そやから最初はあれや。名字で呼び合うわけだ。鈴木さん、田中さん、と。ほら、スロウな匂いがプンプンしているわけや。鈴木さってあれ?どんな映画が好き?ほら。もうベタベタや。このムーアの法則だのギルダーの法則の時代に、そんなまどろっこしいぬるい事しとったらしばかれるけどな。まぁ、スロウな恋愛やからしゃーないわ。関西弁あきた。戻す。で、そうですよ。そんな感じで周りから探りを入れていくわけです。映画だの天気だの。天気いいねー!天気!英国ではとりあえず天気の話から会話を始めるといっとったけど、そうですよ。この当たり障りのなさ!世界に優しい!まぁ、少しは話進めなければいけないので、サブカルチャーの趣向とかを聞くのです。でも、兄弟構成とか電話番号とかプライバシーには踏み込む、それNGあるよ。でも、偶然で出会ったわけだから、なんらかしらのコミュニケーションのプロトコルを握っておかないけないわけだ。電話番号ねえ。電話番号よりも、メールアドレスのほうがスロウって感じするね。あの無機質感。レスの遅さ。そもそも相手がPCもってなかったらNGというバクチな世界。しかも、そのアドレスが会社や大学のアドレスなら尚良しだね。遠いかんじがするもの。携帯メアドはクイックすぎるからパス。昔なら手紙という手法もあったんだろうけど、今は逆に住所ってのは、かなりプライベートレベルが高いからねえ。で、まぁ、会社のアドレス経由で、やりとりを交わすわけですよ。メッセンジャーもSkypeもSNSもISPもOSのバージョンもブラウザもメールのヘッダーも聞いたらアカン。アク解があるわけで。で、そうこうしていて、天気の話をひたすらするわけですよ。しかも会社のメールで。「今日はいい天気ですね。そちらはどうですか。草々」みたいな。ああ!まどろっこしい!ああ、どんくさい!それが良いわけですね。スロウな恋愛の妙味です。キモです、キモ。で、200回くらい天気の話したら、次は食べた飯の話でもしよう。おお、ゾクゾクするですねー。食の話まで出来れば、もうBですよ。B段階。グッジョブグジョブ。で、また飯の話を2,000くらいしますですよ。そしたら、次は好きな体位とか目隠しの有無とか性感帯とか聞いても良し。会社のメールでね。
■友達~恋人未満
死ぬほどのナンセンスなメールを使って友達になったらあれだ。もうあなた友達の世界ね。そしたら、次はデートですよ。デート。デートに誘うべしなわけですよ。最初は複数のデートの方がスロウだね。8人くらいで飲み会とかさ、友達がライブしてんだけど行かない?とかさ。こういう遠まわしの感じが、ブッシュを突付く感じが良いね。で、もういささか飽きてきたので話をすすめると、複数のデートの後は単数のデートですよ。単数っつったら1人だから、1人のデートで、こりゃ話が違うので、トイメンでのデートというか、サシのデートというか、2人ぽっきりのデートというか、その辺りの話という前提の確認。で、デートに関しては、そういえば昔、すごいデートで書いた記憶があるなぁ。じゃあ、省略。そしたら、次は「すごいセックス」かぁ。いつか書こうとも思うのだけれど、色んな意味で制約というかアンタッチャブルというか社会的問題とかもありまして、なかなか筆がすすみまへんな。じゃぁ、その先は、すごい出産とかすごい結婚とかすごい老後とかになるわけですか。ああ、あと最近は「できちゃった婚」を「さずかった婚」というんですよ。ここメモ。おー話が終わってしまったなぁ。スロウな恋愛すぎて、どこにもたどり着いていないなぁ。友人の関係で終わってしまうやんけ。じゃあ、スロウなデートという辺りでも書きますか。手を繋ぐ、とかね。いいねー、シッカパウダーの匂いがするねー。小学生の頃書いた「時間割通り」とかを今思い出したよ。手を繋ぐねえ。でも、手を繋ぐってのはあれですよね。いつの年になっても重要な気がするわけですよ。重力ピエロでもそれは重要なシーンに出てきたしね。手を繋ぐってのは、四輪駆動のうちの1つのタイヤしかもFF車の前輪左側を確保みたいなわけです。相手の自由を束縛。もし、相手が両手でなんかを突き飛ばしたいと思っても、あら残念、あなた片手しかないわねーとなりまして、こりゃ確かに手を繋ぐというのは重要なわけですね。なんかのドラマで手錠で繋がれたカップルの話があったような気が。あ、東京大学物語だ。で、まぁ、手を繋ぐねえ、そりゃ難しいねえ。恋人でもないのに手を繋ぐってのはアウトローだねえ。海賊だよ、海賊。じゃあ、まずボデータッチとかね。手相できるんだ、と手を奪取するとか、マッサージしてあげるホゲホゲとか。そういえば、もてる女はボディタッチが凄いとミズノンノさんか誰かが言っていたような記憶があるけど、確かに、わからないでもない。と考えると関西人の突っ込みは相手の身体に触れるから良いのではないか?じゃあ、手を繋ぎたい人はまず関西人になることからはじめたら良いかもね。スロウな感じだわ。あ、でもさ、男性がボディタッチしすぎると、単なるセクハラというか卑猥というかただのキモイ人になる恐れがあるって、それ男女差別ですか、そうですか。どうでもええけどな。で、何や。そうそう手か。手なぁ。手。あー、そうだ。BoysBeとかでよくあるのは、混んでいるところで、「迷子になるといけないから」とかいって手を繋ぐ奴ね。あー恥ずかしい!今どき迷子なってもケータイあるっちゅうねん!へこへこぴー、という感じだが、そういう中高生的ロマンスいいね。君いいよー。でも、いま高校生もこういうスロウな恋愛はしてへんのかな。すぐラブホとかいっちゃうわけ?そうか。じゃあ、中学生ですね。中学生は生理とか射精とか始まっていないに違いない。むけてもいないに違いない。そもそも毛が生えているのか?なレベルで、つまりは性というものに頭は興味あっても、肉体的には追いついていないのでスロウな恋愛としてモデルケースとして良いかも知れない。でも、いま中学生でもがんがんウテウテとか聞くからなぁ。これは小学生のケースだなぁ。でも小学生ってそもそも恋愛するんかなぁ。僕、小学生のころはファミコンとドラゴンボールの世界やったからなぁ。その当時の最大の問題は掃除当番からいかに逃れるかとかいう世界やからなぁ。難しいなぁ。スロウな恋愛のロールモデルは、じゃあ、まぁ、ませた小学生あたりだな。ませても、あいつらイロハをしらんから手もつながれへんわけや。なんでかっつーと、恋してそれが愛になったら自動的に子供生まれると思っている年頃やからな。ハッハッハ。あほやで。コウノトリよりありえへんやん。なんでそんな恣意的やねん。自分のことやけどな。まぁ、ええわ。話もどさな。手を繋いだかー。で、繋いだ、と。ほな次なにするねん。キスか。セックスか。接吻は大切らしいな。よくある話で、セックスOKでキスNGな風俗嬢がいるようにね。まぁ、確かに、セックスはゴムつけておけば、物理上は触れていないという逃げ道も出来るけど、キスにコンドームはないからなぁ。あれか、油取り紙とか間に挟みますか?どんな合コンのゲームやねん。あ、王様ゲーム!王様ゲームしたらどうですか?あの阿呆さ加減がスロウな感じしますやん。ポッキーゲームとか、バッファローとか、恣意的ルーレットとか、山手線でダウンタウンのメンバーを言わせる奴とか。ああ、懐かしい。青春よいまはいずこ。まぁ、ええわ。で、王様ゲームはどうでもええな。何やったっけ。手をつなぎましたよ、と。これファクト。で、前提だと。で、次は酒とか飲んだらどうですか?そのまま、しなだれて、あららー的な。スロウなかんじじゃないなぁ。酒あかん。俺のまれへんし。じゃあ、手の次はどこを繋ぐか、なわけですね。足とか繋ぐわけですかね?なんだったっけ?足ずもうの話。ああ、坂の上の雲か。足を繋がないとすると、恋愛のステップ。恋愛のバリューチェーンって何かを考える必要があるな。第一レイヤーが「友達」「友達以上恋人未満」「恋人」「婚約者」「夫婦」こんなもんかな?まぁいまや「遺産相続人」とか「恋人以上大切な人未満」とか「セックスフレンド」とか「友達以下」とかあるけど、まぁ例外は省略。で、今は、「友達以上恋人未満」なわけですか。そこをブレイクダウンすれば良いわけですね。でもここは時系列よりもファンクションになってくるんじゃないですかね。「電話する」「遊園地行く」「手を繋ぐ」とか。てか、むしろ「友達以上恋人未満」が「恋人」にジャンプアップするドライバはなんすかね。やはり、言葉の契約?「付き合おう」とか?じゃあ、言葉がなくて恋人の状態は、「恋人未満」のカテゴリなわけ?うーん、それはspecificじゃないなぁ。まぁ、しゃーないか。おし、それで分けると。でも、そうすると、手を繋ぐが、「恋人未満」で発生するのか「恋人」で発生するのかの切り分けの問題発生。MECE破綻。よし。じゃあ、手を5回以上つないだら恋人とかいう仮定をおけばどうよ。あかんな。接吻しても恋人未満という立ち居地とのバッティングが生じる。まぁええわ。手を繋ぐの次は、抱擁ですよ。ハグハグ。コケイジアンの方々だったら、デフォだからつまんないかなぁ。まぁ、いいや。思いついたんですもの。抱擁ねえ。抱擁ってどうよ。なかなか良い言葉だなぁ。しかし、難しいねえ。あれか、「危ない」っていって車がきたときに、ガシっと捕まえるケースとか?ぱっとせんな。奥ゆかしさが足りない。ああ、これどうよ。雨の日にカフェとかでお茶しているわけですよ。で、ついつい話し込んだ、と。で、外に出たら雨。どしゃぶりというよりも、霧雨程度でいいな。あ、それのもう少し強い奴で。で、相手が傘もってなくて、自分が持っていると。まぁ、いわゆる「あいあいがさ」なる古典的用法を使わせてもらうとそうなるわけです、ざっくり言いまして。で、傘を持つのを右側の相手の肩を通して指すわけです。わかるかなー。これ一種の抱擁と定義しても良いのではないか。否。独り言になってきたなぁ。で、まぁ、でも、そうだ。肩をだく、腰に手を回す、腕を組むとか、色々思いついた!テンションあがってきた。あほくさすぎてたのしくなってきた!スロウな恋愛万歳。このハウツー本だそう!図つきで。まぁええわ。で、そうだねえ。そういうボディタッチが色々あるけど、現実的に恋人でもないのに、そんなことするのはかなりリスキーではないですかね。
■最後
なんだか最近、伊坂の引用ばっかりだなぁ。悔しい。でも、まぁ、せっかくなので、度々登場している重力ピエロのセリフで。
「『性を否定するなら、それじゃどうやって人類は存続してゆけるんでしょうね』」
春がその小説を読んでいることは知っていた。
顔は頬を緩めると、やはり記憶を辿るような顔になり、
「『じゃ、なぜわれわれが、いなければならないんです?』」
投稿者 kaz : 17:40 | コメント (9) | トラックバック
2006年08月07日
真夏の夜の夢

夏の夜風に敬意を表して情緒編。
諸君、夏が来た。
葉月である。
八月の花といえば、
ひまわりであり、ハイビスカスであり、桔梗であり
蓮だそうだ。
燦燦と降り注ぐ蝉の声と
吟々と鳴り響く夏の陽光。
19時を過ぎてもまだ残照は街の営みを照らす。
子供の頃は夏の空が永遠で、
空ばかりを見上げて居た。
入道雲が何だかいけすかなくて、
飛行機が描く一筋の雲が好きだった。
夏休みの友、ラジオ体操、林間学校
そんな古語がいつしか過去の遺物となって十数年が経つ。
今やキンキンに冷房で冷えた部屋では
カタカタとキーボードの音しか聞こえない。
たまに冷蔵庫がくぐもった不穏な音を発する程度。
夏の夜は窓を開けると、痺れる程の熱い空気に
過去の残響が閉じ込められているような気がする。
街中で行き交う浴衣のアベックたちは、
一種の夏の風物詩としていつしかの夏を追憶となる。
その様は茫洋たる夏の蜃気楼に彷徨うツバメを思い出させた
追懐、追想、後顧、回顧、回想、首を巡らす。
過去を思い返す同義語は多い。
そしてすれ違う人の香水と汗の芬芬が、
また異国の夏を喚起させる。
今年の夏は海、あるいは花火に行けないかな、と考える。
いや、そうではない。
きっと今からでも奴らに電話をして「海に行こう」と言えば行くだろう。
でも、そういう事じゃないのだ。
その電話のボタンを押すまでには至らないし、
それに、そういう事じゃないのだ。
2002年の今日の日記を見てみると、
近所の魚屋に海老を買いに行っていた。
そして実家に電話をしていた。
その日の記憶は何もないけれど、
なんだか、その頃の匂いと音だけが蘇って来る。
そんなものだ。
人は過去の特定の日々を思い返すのではなく、
現在の些事が過去の瑣末な何かとリンクし
それが過去を形成する。
しかし、何がなくなったのかは人は解からない。
本当になくなったものは、目に見えるようなものでもなく、
ましてや知覚さえ出来ないものなのだ。時に。
夜風が涼しい夏の夜。
あらゆる憂鬱や懸念、物憂いを全てなぎ倒すような白南風に揺られながら
けやき坂のイデー カフェであなたは言う。
ないものがあるんだよと。そこだけを取ると禅問答のような言葉。
デジタルカメラとフィルムカメラの違いのコンテクストだった。
写真はデジタルになって、銀塩カメラが持っていた何かをなくしてしまった。
けれどそうじゃない。
それは時系列で見るからそう見える。
もしデジタルカメラが先でフィルムカメラが後に登場していたならば、
我々はデジタルカメラが持っていた「何か」が、フィルムカメラになって、なくなった事にいつしか悲しむ事になる。
デジタルでも銀塩でも、どちらかしか持って居ないものがあって、
それが移り変わると人はなくなったものを悲しむ。
過去を思い返して、今にない過去を愛しむように。
砂上の楼閣を愛でるように。
何であれ、あるいはいつであれ、「無い」ものはいつもある。
それが、つまり「ないものがあるんだ」という言葉だった。
思い出も同じである。
思い返すと、「あったものがない」のだけれど、
きっと今も見返すと「ないもの」があるのだろう。
そして同時に「ないもの」はないという過去の選択肢の結果として存在して
今、我々の手の中には「あるもの」だけがあるという事になる。
突き詰めて言うならば。
伊坂の「重力ピエロ」を読んでいた。
「本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ」
春は誰に言うわけでもなさそうで噛み締めるように言った。
「重いものを背負いながら、タップを踏むように」
「ピエロが空中ブランコから飛ぶ時、みんな重力のことは忘れているんだ」
この言葉が印象的だったというよりも、
丁度、似た言葉をこの間、聞いたばかりだったから、
強く頭に残った。
近くの西公園のブランコから飛んだ夏の午後を思い出した。
その頃はブランコの柵なんか怖くなかった。
ただ遠くに飛ぶ事しか頭になかった。
本当に何も怖くなかった。
落ちる事や失敗する事なんて考えていなかったのだ。
空は無限で時間は永遠だった。
ただ、風を切る自分の感覚だけが全てだった。
本当に怖くなかったんだ。
夏の風は何かしらの言葉を運ぶ。
真夏の夜の夢のように。