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2006年07月30日

エビでエビをエビ

shripom.bmp

■エビの話

海老の話をしよう。

私は好き嫌いは原則としてないのだが、
「好きな食べ物は?」と聞かれた場合、
「海老」という回答を奉るわけである。
豆腐という事を返す事もなからぬ事ではない。
といふのも、海老という響きはあまりにも高貴すぎて
口にするのが憚られる程である。
 海老は素晴しい。

あの跳ね上がった愛嬌のある尻尾。つぶらな瞳。
ダリを彷彿させるヒゲ。苦労を偲ばせる折れ曲がった腰。
なんて愛しいのだろう。
嗚呼

カリフォルニアのマリナデルレイという響きに海の匂いがする町に
キラーシュリンプという凄い店がある。
Killer Shrimp - Marina Del Rey, CA, 90292-5420 - Citysearch

ここにあるのはメニューは2つ(確か)。

海老ご飯、
海老パスタ、の2つだ。

脳天直撃素晴らしさ。
嗚呼。
皿の上には大量のエビ。もうエビですよ。エビ。
ああ、もう一杯。
エビ嗚呼恍惚陶然。

ちなみに、世界各地でエビを食してきたが
一番でかかったエビは、
メキシコのリゾート地「カンクン」にある郊外のレストランの
「エビスペシャル」だった。
ぷりっぷりです。
ちなみにぷりっぷりという擬音語は
エビにしか使ってはいけない形容詞で御座います。

しかし、エビというのは料理法は限られるのではないか?
炒める、焼く、生が原則として
まぁ鍋で煮たり、エビフライとして揚げたりはするけれど、
本来のエビの素晴らしさを味わうにはやはり
炒めなければいけないんですよ。

赤いエビが良いと思うのですよ。
青いタコを誰もが食べたがらないように。

■コンビニの話

コンビニエンスストアという聖地を知っていますか?
(阿刀田風)

ファミマとかローソンとかセッブンイレブンとかエーピーとかである。
あれは聖地だね、と思いましたよ。

日本に生きる人々で、行ったことのない人は
いないのではないか?

いつ何時でも空いている。
電気は煌々と輝く。
まさしく光に集まる虫けらの様に(C チルミチル)
我らは夜中にアソコに集まるわけである。

小腹が空けばソバを買ってすするわけであり、
待ち合わせでは情報誌を立ち読みし
部屋飲みをする時はツマミを買出しに行くわけである。
嗚呼、なんでも出来るじゃないですか。

そして素晴しいのは、それが海外でも享受できる
幸せということである。もっぱら経験則的には、
タイとか中国とかのアジアに限るが。

もしコンビニがなければですよ
うまく行くこともうまくいかないあるよ。

先週、何回コンビニに行ったかを計算してみた。
30回以上は行っていた。
大体朝1回、帰り1回、途中で3回である。

嗚呼もうじれったい!
コンビニは素晴しい。

■itunes

最近、itunes musicstoreでCDを買う事が多いのですが
最近のヒットはこれ。

Donna SummerのHot Stuff
これ直リンク張れないのかね。

ダイエットコークのCMで使われていた奴。
夏だね。

あと、気付いたんだけど
iTMSで視聴したら、15秒とかでも聞き終えたと認識され
それがmixi musicとかに反映されちゃうのね。


■最近読んだ言葉

・吉田公明の詩

けふから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うつくしくもなくなったから

これは物凄い力のある言葉だと記憶。深すぎる言葉。

・海辺のカフカ

今日の世界の中心的なテーマは「現状維持」であるようだった

カフカを再読したんだけど、やはり僕にはピンと来ず。

・陽気なギャングの日常と襲撃

卵を割らなければ、オムレツを作ることは出来ない

あと、応用として
パンツを裏返しにはかなければ、パンツの表裏の価値はわからない。
政治の勉強をしても、社内政治の意味はわからない。
夢を見なければオムレツは美味しく頂ける とか考えた。

■甘いもの

甘いものとは、すなわちそれ幸せである、
と故人は言った。

いつかの小雨が降る日曜日。
非常に身体がヤワになっていた。
控えめに言って、東京から大阪まで歩ききる途中の
静岡を歩いているような心境だった。

渋谷駅が虚ろだった。
夜の渋谷は苦手だ。

グラス半分のビールで
ふらふらになっていた。
晩飯も殆ど食えない程に。

そして、その後に桜ヶ丘にあるカフェに連れて行ってもらった。
夜遅くまで開いているカフェ。
マンゴジュースがないカフェ。
フォークを3回落としてもニコヤカにフォークを運んできてくれるカフェ。

そこで、アイスケーキが運ばれてきた。
やれやれ、と思いながら口に運んだら
激震が走った。
ちゃんとした甘いものを食べるのは
久方ぶりだ。

ミトコンドリアが沸き立った。
BeachBoysが今にも歌いだしそうだった。
テンションはV字回復し、瞳孔は一回転して開ききった。

甘さは人を幸せにする、と思った。

投稿者 kaz : 16:36 | コメント (2) | トラックバック

2006年07月24日

イブがアダムに林檎をあげて以来の原罪

book246.bmp

■週末の話

携帯の着信音は日曜日よりの使者。(動画

平日は常時マナーなモード。その為、この声が聞こえるのは週末だけとなる。
そして、この歌を聞くと「週末だなぁ」とパブロフの犬

たとえば 世界中が どしゃ降りの雨だろうと
ゲラゲラ 笑える 日曜日よりの使者

日曜日の午後は、いささか憂鬱だけどニヒルな失笑ではなく、ゲラゲラと快活に笑いたいなと考える。でもまぁシニカルな笑いも悪くないな、とイーサンホークの顔を思い出して、考えを改める。
時に明朗な笑いは人のエナジーを吸い取っているんじゃないかと邪推する人も居る。

そして、週末の部屋に映るap bank fes’05のDVDでは
脳溢血で倒れた好青年が歌う情熱の薔薇がかかっている。

見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い

悪くない、と思う。
色川武大や景山民生の出鱈目な人生に憧れながら、道を外れられない雪原を思う。
友達が仕事で群馬に行った。
途中で温泉があった。「全て投げ出して温泉いったろうか」と思ったという。
そんなギリギリのタイトロープな日々を、あなた方は生きる。
狂気とは、遠い日の花火ではない。

とまれ、私はなぜか家で作業をする時に、ずっとDVDをかける癖がある。
ちなみに、最近の白眉はこれ。
サザンオールスターズ - Inside Outside U・M・I

ひたすら海の映像が流れ、BGMが流れているだけ。
仕事が終わって帰宅して。シャワーを浴び寝る前の10分くらいに、
泡の飲み物を飲みながら、ぼーっとこれを見るとトリップする。
海の映像はいいよ。
海の漢字の中に入っている母という字は、やはり秀逸ですよ。
でも、母という字の中には「÷(割る)」という言葉も入っているわけで、シニカルだなぁ、と
今、気付いた。

ちなみにこのCM見ても、夏だなぁ、となぜか思う。
YouTube - Diet Coca-Cola Ad : Hitomi

そんなこんなで、日が暮れる。
門限までには帰っておいでや。
そういうことで、普段がシャワーなので
2ヶ月ぶり位に湯船に入ろうと思い立ち、
湯をジャージャー入れていたら事件が起った。
栓をするのを忘れていた。
だだ漏れという奴です。
えらいこっちゃ。

「Shit」とボヤキながら、厳重に栓をして再度湯を入れる。
そしてバブをざぶざぶと入れる。
10回分ほどを入れる。
バブだけに、バブバブですよ。
森になりますように、と願いながら。
森林の匂いが風呂場に充満する。
「君のための入浴剤があるんだ」という言葉は口説き言葉になりえるのか?
と自問をしながら、なりえない、と自答する。
どちらかというと即答というよりも、少し考えた末の結論だから
おおむね正しいと思う。

■電話の話。

学生時代は、殆ど電話というものを使わなかった。
恋人との対話さえ電話よりもメッセンジャーだった。
電話とは、あくまでも用事を伝える為のポストイットであり、
あるいは、待ち合わせ時間を確認するメモだった。

しかし、社会人になって電話というものを使う機会が増えた。
勿論、仕事で、という意味ではなく。
周りで、社会人の先輩たちからよく電話がかかる、という話は
そこらでよく聞いていたのだけれど、
自分がその立場になると、その気持ちが非常によくわかる。ねぇ。

電話なんて、本当にしない人間だったから、
それこそ中学校の頃なんかを思い出す。
部屋にコードレスを持っていって、深夜にコソコソと電話を。
時間を決めて、相手の親が出ないように願って。
おかんから、数万円の請求書を叩きつけられて
布団被って寝た記憶。誰しもが抱えているような。

とまれ現在。帰りのタクシーや、
あるいは仕事の合間にふと空を見上げた時、
はたまた、なんだか休日の朝にボサノバの音に思えるような時期に。
とはいえ、せいぜい週に1回だか2回の話なんだろうけど。

でも、そんな時に限って、電源がオフだったり、
あるいは電話の鳴り続ける音が木霊し途方にくれる。
そんなもんだ。

ちなみに、どこかで読んだ秀逸な名言。

電話番号をまちがえて自分の社会保険番号へかけた人への言葉。

飲んだら電話するな

■食事の話。

同僚と話してて「週末は彼女と*万は飛んじゃうよ」というので、
なぜそんなにも使うのか、という適切な突っ込みを提示する。
「彼女が仕事をしていないので、全部、出費を持つからだ」という答えだった。
そこで、ふらりと考えた。

女性と食事を行くと
人生の男性の先輩たちは、ほぼ10割彼らが勘定を持っていた。
女性と限らず、後輩という場合もあるが、
まぁ、後輩のケースはその理由が理解できる。
そのような上下関係がない場合の話。

食事やデートでなぜ男性が女性に対し常にサイフを持つのか、
というテーゼを考えてみた。
まぁ、一般常識から鑑みれば
「そういうものだ」と片付けられてしまう事かも知れないけれど、
でも、ふと、そこには何かしらの見えない因果関係は存在しているのではないかと考え

さて、どう思われるだろうか。男性の諸君。
諸氏は女性と食事に行った場合はお会計をどうしているだろうか。
出している場合、その理由を考えたことがあるだろうか?

まず考えられるのは
フェミニズム社会や女性進出社会といわれているけれど、
食事を誘う場合は、男性からのケースが多い、という前提。
Agree?
とするならば、誘った方がサイフを出すのは、まぁ、一般的な社会ルールですわね。
ビジネスにおいても、そうでっしゃろ。
自分がオファーしてるんだから。
だから、結果的に男性が出すケースが多いという話。

他に思ったのは
一般的に男性の方が下心がある場合が、女性に比べて「相対的に多い」傾向があるという仮説。
(ここ「真面目に」強く強調しておくが、あくまでも「相対的」であり「傾向」であり一般論を前提とした「仮説」である)
その場合、食事を奢るという事で、何かしらのリードを取るという切り札の1つとして
つまり、戦略の一環として、食事の会計が存在するという仮説。
丁度、こないだ酒飲んだ人が似たことを言っていた。
「タクシー代を出してもらうと、相手に借りができるのが嫌だから出してもらわない」と。
なるほど、と。
まぁ、確かに、非常に納得できる生の声ではある。
 しかし、これは誰しも下心あるわけでもないし、
逆に、社会人になったら、時間の関係上、友達と飲む場合は
2人とかになる場合も多いわけで、これ友人との場合は下心がないわけで、
このように一元化できる問題ではないので違うような気がする。
 しかも、いまどき飯をゴチしただけで、何かが変わるような世界でも
あるまいしねえ。せちがらい時代だぜ。
 それに人生の先輩たちは、そんなものなくても出してるしなぁ。

三点目として
女性は、そもそも生活に金がかかるという前提。
化粧とか服とかエステとか脱毛とか腹筋とかピンヒールとかワセリンとか
なんかもろもろ。
まぁ、相対的に男性は、その辺にはあまり金を使わないわけですよね。
で、その女性が自分を「よりよく」見せるためにコストがかかっているので、
その代わり食事やデートのコストは男性がカバーするという仮説。
つまり、代償ですわな。
さりとて、じゃあ化粧していない女性にはゴチらなくても良いのかというと
ぶっとばされるので、そんな事はない。
あくまでも、この差というのが性差に還元されるわけで、
すべからく男性はその責を負うという考えです。

なんていうどうでもいいことをつれづれに考えていた。
本当にどうでもいい話で失礼。

あ、ナンロバートロンのこの言葉が参考になるかも知れない。

イブがアダムに林檎をあげて以来、男女間では贈り物をめぐって誤解が続いている。

そして、シャーロットホイットマンの含蓄に富んだ素晴しい箴言。

何をやるにせよ女は男の二倍やって初めて男の半分の力があると認められる。
幸いにしてこれは難しいことではない


■ハニーポッドの話。
先日、飲んでて、ハニーポッドの話が出た。

一般的に
ハニーポット とは

不正アクセスをされた際の囮をさします。
ということらしいですが、
別のところでは、いわゆる身体売るスパイのような存在を指します。
つまり、身体を使ってターゲットを骨抜きにして情報を引き出すわけですな。
コレだけ聞くと、ジェームスボンドの世界かと思うけど
意外と日常に転がっている話で。
どっかのネーチャンに弱みと小股を握られて企業転覆という話もあるくらいで。

つまり、ターゲットから情報や弱みを引き出したい時に
ボインでグラマラスでキュートでブロンドで小またがきりりと切れ上がって振り返り美人の
ねーちゃんがやってきて、ターゲットはころりと落ちて
ベッドの上で、情報をだだ漏らすわけになります。
情報だけじゃなく、血液とか、カウパー液とか、リンパ線とか、
赤血球とか、潮とか、いろんなものがグデングデンにだだ漏れるわけです。

ちょうど、先週だっけ?某芸人が、若者となんかして
つかまっていたけど、まぁ諸氏も気をつけてくれたもう。
男性だけじゃないよ!女性も危険だよ!

高橋源一郎は、官能小説家でこう書いた。

人生にはたくさんの罠がある。
いたるところ、地雷だらけ

とりあえずメモって、サイフにいれておいた。

■火曜日の話。

高木君が以前
「火曜日が終わったら、今週が終わったと考えるようにしている」という話をしていて、
その時は、そんなもんか、と思っていたが
いざ、我が身にその状況が降りかかると、
その言葉が非常にバリューブルな意味を持つ言葉に代わる。
ここにゴールドマイン発見。
 ということで、何かしら火曜日が終わったら、
身体は週末にシフトアップするという次第である。

しかしあれですよ。
前までは週休1日がデフォだったんでしょう。
素晴しいね。
そりゃ、高度経済成長するわ。景気もうなぎのぼりやわ。
ドイツとかフランス人みてみ。
休みと労働の比率が逆やから。
そこ全力で突っ込んで良い所やと思うで。
あほかと。


■珈琲

珈琲上手いね。
最高だね。
この世の中からなくなったらいけないものの
上位だね。

朝は、まずドリップで一杯。
会社の下のエクセでラテを一杯。
昼は、飯屋の帰りのスタバでソイラテ一杯。
夕方はしょうがなく缶コーヒーで一杯。
夜は、夢の中でまぁ一杯。

ちなみに、私が今まで飲んだ最高の珈琲は
エチオピアの珈琲。

エチオピアは珈琲が生まれた場所としても有名。
たしか珈琲に関する論文を書いた時に調べた覚えがある。
でも、諸説あるので、一概にはいえないのですが。

で、このエチオピアの珈琲の入れ方が
独特なんだ。
珈琲セレモニーって言ってね。
いやぁ、儀式なわけですよ。
参考; コーヒーセレモニー - エチオピア流コーヒー

国境でね、夜は開かないからといって
国境で夜を明かすわけですよ。
スノウリだったかな?
何もない街。

宿が一件しかないけど泊まるのは僕1人。
100人くらいしか住んでいない町。
そこで、宿といっても、そもそも扉がないんだけどね、
その庭で、コーヒーセレモニーをするわけだ。
寝袋で寝る僕の鼻腔をそそる、コーヒーの匂い。
嗚呼。

一杯の珈琲とは、1つの哲学だ、
 とは誰の言葉だったか忘れたけど、まさしくその通り。
ドストエフスキーはこう言ったよ。

一杯の茶のためには、世界など滅びていい


※このエントリは土曜日作成しました。諸事情による注釈

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2006年07月17日

Why so raining

mixedup.bmp

今回は雨に敬意を表し情緒編。

日曜日、夜の麻布十番はどこもかしこも閉まっていて。
突如入った予定、三連休半ばの夜。
たまたま開いていた二の橋の麓にある地下一階のその店は、因縁付きの店だった。
アンニュイ、という響きが似合うようなそんな。「本日のメニュー」の一番下に殴り書きされた
ブラジルの定食は、豆と肉で出来ていた。
ビーンズ、と頭の中で呟いた。

故人が「銀の針のような雨」と形容した霧雨が7月の街を覆い
東京タワーも、そして六本木ヒルズさえも
淡い水墨画に変えてしまう。
そして、甘い雨が現世の「リアル」って奴を曖昧にした侭に
僕らは雨の麻布を彷徨う。

閑散とした夜更けの十番の商店街を抜けて
けやき坂のtsutayaで本の匂いを身体に吸い込み。
芋荒坂の侘しさと悲しさを通り過ぎ、アマンドに至る。
夜の六本木はいつも通りに
セックスを言語とした喧騒にまみれていて、
微かな青春の芳香と夏が創る汗の色香が
ありし日の思い出を手放さないでいる人々の
無情を包み込む。

"通り雨がコンクリートを染めていくのさ"と
イニシエのメロディが街を炙り出す。
婀娜めく人々が、初夏を待つ嬌姿のまま
時が止まったように刹那の休日前夜を謳歌する。

「ニュウバイしたそうですね」
と、言われて混乱したのがひとつき以上も前になる。
ひとつき、と呟く。
文月ももう半ば。

漢字で書くと入梅。
梅雨の季節は、脆く儚い。

今年の梅雨の時期に買った傘は5本を越えた。
言うならば、おざなりの傘。
そして、その梅雨の季節も、あと一週間もすれば明ける事になる。
そうすれば、我らが時代、と故人が言った夏がやって来る事になる。

夏がなぜ良いかというと、
ただ一点に尽きる。

それは夏が夏の思い出を運ぶからである。
夏が持つあの朝の眩しさや
夜の街を包む炎天下の午後や
熱帯夜に響く風鈴の音、
主に小学校から中学校までに凝縮されて
海馬に生みこまれた夏の記憶が、
夏の音や匂いや暑さと共によみがえってくるからである。

これゆえに夏は良い。
ある夏の思い出を、薄っすらと思い出す。
残光の残っていそうな夜のcafe。

「自殺を考えた事がある?」
「ない」

即答だった。その人は迷うそぶりも見せず答えた。
そして視線をグアムスカッシュに移し、
ストローで氷をかき混ぜた。

他意なき質問だったのだけれど、
人間誰しも中学生頃の思春期に、死と生について
悩むものだと思って居た僕は、少し面食らった。
キルケゴールを読む必要はないとしても、
己が提示する死の可能性を考えた事がない、と
瞬時に声に出せるその凛とした響きに戸惑った。

プロントの冷房はいささか効きすぎて、
間違って頼んだオレンジスカッシュも
減る事を知らない。

また別の話。
不意を突かれた回答の話。

「サーフィンは好き?」
「最後は必ず波に飲まれるのが良いと思う」

これまた癖で他意なき質問をした僕なのだけれど、
想像し切れなかった感想に、狼狽して上手な返しが出来なかった。
そういう考え方もある。
サーフィンに飲まれる波の儚さと永久なる永久運動に乾杯を。
泡沫の人生に、泡沫の煌きを。

そして、また別の御話。

「届いていないよ」
と、想像を超えた回答が返って来て、またも少しめんくらった。

たまたま電話で、その「出したもの」に関して話をする事がなければ
僕は「出したものが届かなかった」事実も知るすべはなかったし、
相手も「出されたものが届いていない」という事実も知らないまま生きていたのだろう。

世の中には、そんな「混線」が沢山あるんじゃないかとふと思った。
例えばメールアドレスを間違って別の友人にメールを送ってしまったとしても
間違われた相手が、そのメールを自分で処理してしまえば
送った方は間違った事を知らない。
そして、自分は送ったと信じ、相手には届かない。

同じく、スパムメールにまぎれて
届いたメール。
うっかり削除してしまったならば。
自分はメールが届いた事は知らないし、
相手も、送ったはずだと信じきっている。

電話と異なったメールの寂しさは、このような
一方通行の可能性にあるのではないかと、ふと思った。

何かしら、とても悲しい。
相当に悲しい話。

誰にも読まれない言葉というものに哀れみを感じ
悲しいのか、それとも、どこかを彷徨う言葉の末路に悲しみを
感じるのかわからないけれど、その違いは以外と大きいんじゃないかと思った。
なんだか、日の光を見る事なく死んでいくカワウソのように、
あるいは、両性具有の中で自己完結してしまうカタツムリの哀愁のように、
それは、何かしら小動物や昆虫の憂いを思い出させた。
ペーソス、と日常では使い勝手のない言葉のない言葉の甘酸を思う。

下書きのまま保存されたメールや、
公開されないままに埋もれたブログのエントリー、
あるいは切手が貼られないままに封された色あせた手紙。
言葉が好きだからこそ、
時代のエアポケットに埋没してしまった
報われない言葉たちに追悼を祈る。
ご多幸を。

深夜3時のFRIDAYSは、
ボリュームを間違った音楽で溢れていて、
頼んだクッキーシェイクサムシングも
甘さを間違えたようなSweet加減だった。
その甘さを消すようにビターな言葉で行間を埋める。

物には時節、花の咲散、人間の生死を嘆くべからず

そんな井原西鶴のビターな言葉が
人生に何かのノスタルジアとアタラクシアを
与えてくれる事もある。
just I was looking around there on the top of steps.

4年前にインドで出会った人から
メールをもらった。
大仰に言うならば、青天の霹靂。
平たく言うならば、雨の日の懐かしい便り。
4年前の自分は何を見ていただろうか、とお決まりの自問自答を
自身に返す。人生はフィードバックとより返す波、そして揉み返しの連続である。
4年前、インドになぜ行ったのかはよく覚えていない。
多分、例の如く、三島かミシマの言葉の影響を受けて飛び出したんだろうと思う。
結局、旅ってのは見切り発車なのだ。事前準備は、そもそも旅の枕詞として似つかわしくない。
そして、インドに行って何かが変わって、何かは変わらなかったというだけの
どこにでもある転がっているような話。
でも、このような旅行の記憶というのは、自分の記憶の中のベンチマークのような役割を果たす。
あるいは、単純にDVDの区切りのような効用を意味する。
NYの頃、あるいは、箱根に行った頃、はたまたインドの頃、と自分の人生は
年ではなく旅で区切られている事にいつしかあなたも気付く。
旅で何かが変わったわけでもないのに、やはり旅は何かしら記憶の「before」と「after」を
分けてしまう効用を持つ。それは、旅が純然たる非日常ゆえに、日常は分離され
別のメモリに貯蓄される。
インドの人が焼かれている様を、ガンジス川のホトリで見ていると、そのガンガーの横でその人は
インド人にナンパされていて。で、「あ、関西弁だ」と思って、話が始まった記憶があり。
そしてモナリザというジョークにもならないセンスの店でベジタブルバーガーを
僕は食べた。それだけの記憶が、ぼんやりと頭の痒い所を締め付ける。

FRIDAYに時は戻る。
「この世に生きている価値がある人間がどれだけ居ると思う?」
「さぁ。どうだろうね」
「"ズィエロだ"」とオーデュボンの祈りのサクラの口調を真似して言う。

ユーゴは何を今見るんだろうか。

投稿者 kaz : 17:24 | コメント (4) | トラックバック

2006年07月09日

FairPlay ForePlay

dawn.bmp

イスラエルとパレスチナの地において、
戦火が轟々と燃えている。

私は、パレスチナ人の肩を持つ気もないし、
あるいはイスラエルに肩入れするつもりもないけれど、
この問題は無視できない理由がある。

1つは単純に私がこの地の民に非常にお世話になってしまった事。
そして、その地で命を懸けながらこの地を伝えようとするジャーナリスト達に会ってしまった事。

世の中には、よりヘビィな、あるいはより複雑な問題があるのかも知れないけれど、
自分にとっては、やはり自分の触覚が触れる事の出来る範囲で動くしかなくて。

このような問題は、
全然対岸の火事ではなくて。

それこそ北にある国がミサイル云々という話が先週あったけれど、
これは「怖い」とか「危険」とか言う話ではなくて、
やはり、戦略政治の文脈で語られるべきもの、
「是非」どうこうではなく、どのようなアクターが
どのように振舞うべきかのチェスさながらの思考が必要となってくる話である。
でも、旧来なるパワーポリティクスの延長上の話とは少し違う気もするけれど。
それこそ、亮とか、ちっひーとか、なおと君とかは
この辺りの問題をずっとしてはるわけで、もしかすると数十年後
(ある種の)アクターにさえなっている可能性もあるわけで、うーん、と思うわけです。

ともあれ。

ちょうど周りのブログで似たような話を先週、散見し改めて思ったわけです。なおと君のブログとか、WARとか173.新興宗教とかデリヘルよもやま話とか。あ、マリさんのは関係ないけど興味ぶかかったので張ってしまった。

ああ、そうそう。
改めて国際政治に少しちらっと頭がうごいたのは
数日前、近しい人に指摘されたからであった。
「そんな事じゃ大切なものを失うよ」と。

自分にとって大切なものとは何かというのは、
ギリシア神話的命題といっても言ってもよいような(勝手に僕がいま命名した)もので、
幸せとは何か、大切なものとは何か、優先順位とは何か、
とは人によって異なり、あるいは定義によって異なり、
あるいは時間軸によって大きく異なるものである。

ただ、定義としては、
いつも呟くように、幸せというのは感情であって目的ではない。
その為、幸せが人生における、何かしらの優先順位1位になる事は
少し違和感がある。

小学校で学んだ一番大切なものはフレミングの法則と答えられたような
違和感を感じるわけである。
ともあれ、そんなこんなで、確かに、世の中には
様々なる選択肢があって、個々人は、その分岐における時点で随時
選択肢を選び取っているわけで、そこには当然、
個人の選択基準があり、それがある種の優先順位と呼ばれるものであるが
問題は、それが絶対的なものではなく、流動的で、あくまでも限定的条件下における相対性でしか
ないということである。
つまり、「眠い」と「腹減った」という選択肢がある場合に、
「まずは飯より寝る」という人が、常にその選択肢を取らないのと同じ問題である。
また、同時に、そこにも分水嶺がありまして
例えば人生における大切な何かの一番は金ではないといっても
金がなければ、電車にも乗れないわけで、ある程度の水準が確保される必要がある。
まぁ、ともあれ、でも私の場合には大切なもの、ということで
「夢」が浮かんできて、そういう思考になったわけです。長い前文。


あ、そういえば、戦争。
昔はさ、戦争は、「避けられざる仕方ないもの」という感じだったわけですよ。
軍事力も仕方ないな、と。
だから、戦争も、あるケースにおいては必要な何か、だと思っていたわけです。

しかし、最近考え方が変わりまして。
得にブランド国家論を学んでいるあたりから。
あるいは、大人になったからかも知れない。文庫本を大人買いが出来るようになってから
物事に対しての考え方が変わってきた。

ということで、
例えば、北朝鮮の問題しかり、パレスチナの問題しかり、
これってば、極論は気持ちいいわけですよね。
「潰すべきだ」とか「融合しちまえ」とかね。
でも、それってば、リアリティが何もない。
気持ちよさっていうのが学問においては、得に
非常に足をひっぱるわけです。
特に社会学全般においては。

そして、正論も、どこにも進まないという点で、ふどまりになります。
つまり「戦争はいけない」「ミサイルはいけない」
当然ながら正論は、どこにもたどり着かない。
so what? なわけです。

で、お年どころとしては、
結局、「正論」と「極論」をブリッジするところなわけですよね。
距離的中間的ではない。

だから、「戦争はいけない」けれども「起こっている現前」に対して
「戦争を出来ない程に弱らせてしまえ」という極論を
実際にオペレーションまで落とし込める前提条件の構築というかなんというか。

そこで一句。
前戯を触感というをんな、つーるつる

季語はつーるつるで初夏である。
さっき思いついた。

あ、そうだ。
何が言いたかったかというと、フェアネスっていう問題なんですよ。

戦争っていうのは、あまりにもフェアじゃない。
もっとも、公正、いや、むしろという所の「公平」。
少し言葉が違うな。フェアネスですよ。

そのバランスが圧倒的におかしい。
世の中ってのは不条理や不合理で満ちていて
フェアなものなんて、何もないけれど
(万人が生きて死ぬというフェアネス以外は)
それでも、何かしらの許容できる範囲で、世の中はバランスを
たもって回っているわけだけど
戦争は、その許容できる範囲を飛びぬけて超えているわけです。

殺人が「やむなし」として行われているというのは、
法律から、倫理から、道理から、世間体から、種の保存から言っても
やはりバランスがおかしい。


で、情報の非対称性はしかしながら、許容できるかという
設問に突き当たる。
情報の非対称性ってのは、どこにもあるもので。
でも「力」の非対称ほどには問題にならない。

例えば、セックスなんて、寝てみないとわからないわけで。
それは、売り手と買い手の情報格差は大きすぎる。
ちょうど、先日見た「sex and the city」の6-1で
そのエピソードが触れられていて。

まぁ、ともあれ、情報における完全市場ってのは、ナシだ。
詰まらない。力はなしでも情報はありという理論は血の観点から正当化される。

レモンを手にしたくはないが、檸檬を丸善に
おいてくるのは、フェアだと思う。
だれが、その檸檬が物語を生むと思うだろうか。
もごもご

たとえばポーカー。
ポーカーなんて、非対称性かそうでないかというと
明らかに前者で。

相手の心理がわかる者には
わかるわけで。
とはいえ、これは厳密な意味での非対称ではない。
まぁ、いいや。

で、なんだっけ。

ダンスダンスの話。

そういう風に彼女と寝るのはフェアじゃないんじゃないかという思いが、
頭の隅からどうしても去らなかった。

と主人公は帰りのタクシーで考える。
「部屋にあがって」という女性の誘いを断った帰りのタクシーで。

そして、彼は考える。

そんなのは、しるしのついたカードでトランプゲームをしているみたいなものだった。
フェアじゃない。

でもセックスの領域でフェアネスというものがどれだけの意味を持つのか、と僕は自問してみた。セックスに公正さを求めるんならどうしていっそのことミドリゴケにでもならないんだ。
その方が話がはやいじゃないか、と僕は思った。

ということである。

つまり、ここでは「フェアネス」という彼が好きな「公正」の言葉が出てくるが、
結局「やりたいけど、しない」という選択肢を彼は選ぶわけである。

世の中では、
こういう場合に、この選択肢が逆に
「not polite」という場合もあるだろう。
(そもそもセックスにpoliteというものがどれだけの意味を持つかは知らないとしても)

それでも、まぁ「しない」わけである。

もっとも、後日、彼女が働いているのを見ながら、

僕は彼女を見ながら、あの子と寝ようと思えば寝られたんだ、と思った。時々そういう風に自分を勇気づける必要があった。

言うのだけれど。

個人的には、「勇気付ける」という意味では、この公式は意味を持つかも知れないけど、
この方式は彼女にとってフェアではない。

寝る、寝ないの事実は別ではないけれど、
「寝ようと思えば寝られた」かどうかは、
別のスライディングドアの選択肢であって、主観としての解決策としての効用を持たない。
本来ならば。

物凄い全力で話がそれている気がする。

何がいいたいかというと。
公平っていう価値観ですよ。

ガルフ会長のウィリアムKホワイトフォードは言うわけです。

機会均等とは誰もが無能になる公平なチャンスを意味している

あら素敵。
あ、丁度昨日「人生を放棄する者に是非を問う事は誰にも出来ないか、あるいは誰が出来るのか?」議論を
していたような気がして、
相手が言うには「タフな人生を押し付けたくはないから、出来ない」という論理で、
なる程、と思ったものの、やっぱりそれは世界のリソースの観点
あるいは、尊敬する氏ブルデューの社会的資本の観点から言って見れば
やはりそれは誰かが言うべき権利を留保しなければいけないのではないかともごもご。

で、中国の偉い人老舎さんは言う。

雨は金持ちの上にも降れば、貧乏人の上にもふる。善人のうえにも振れば悪人の上にも振る。
とはいえ、雨はけっして公平とはいえぬ。もともとが不公平な世の中の上に降るからだ。

いい事言った。

で、ブログをざっと見返してみたが
ぬおー
物凄い論理が全力で破綻している上、
何が言いたいのか、ちっとも解からない!意味がわからん!
なんじゃこりゃ!何が言いたいんだ俺!


師曰世界是不条理也
好的?不好的?

投稿者 kaz : 23:47 | コメント (3) | トラックバック

ブサイコロジカル:援トラキャンペーン

劇団ブサイコロジカル。からのお知らせ
カンゲキしてみませんか?
劇団ブサイコロジカルでは8月30日からアイピット目白という劇場で第二回公演を行います。演劇をよく見る方にも、演劇を全く見た事ない方にも楽しめる舞台作りを行っております。是非、劇場まで足を運んでください。
劇団ブサイコロジカル。第二回公演「イロトリドリノセカイ」
舞台は、空が今よりも少しだけ薄暗かった頃の東京。 江戸川のほとり、打ち捨てられた廃屋。

保健所によって両親を殺されて以来、人間の影に怯えながら生活を続けている兄妹の猫がいた。
妹のソラは物心付く前から廃屋で暮らしている為に外の世界というものを知らず、夜毎、食べ物を漁りに外へ出る兄の背を眺めては下界への羨望を募らせていた。兄のダイチはそんなソラに対し「何者にも脅かされる事なく暮らせる世界」をプレゼントするために、人間への復讐を兼ねた一大犯罪計画を練り上げた。

かくして「猫が人間の赤ん坊を誘拐する」という前代未聞の大事件は発生した。
会場:アイピット目白(JR目白駅から7分)地図
日時:8月30日(水)19:00~
   8月31日(木)19:00~
   9月 1日(金)19:00~
   9月 2日(土)14:00~ 19:00~
   9月 3日(日)13:00~ 17:00~
脚本・演出:工藤もぐら
キャスト:南さゆり/福山剛史/大村俊輔


この投稿をコピペしてXiaostyleを当てよう!援トラキャンペーン!

投稿者 kaz : 23:46 | コメント (4) | トラックバック

2006年07月02日

旅と飯と女

tomuyamu.bmp

新聞の記事で旅の匂いを嗅いだ。

青蔵鉄道が開通したそうだ。
世界でもっとも高い地点を走る中国の鉄道。

青海省西寧からラサまで繋ぐ。
開通したのは、ゴルムドからラサの1,412キロ。
北京からラサまで、4,614キロを48時間で結ぶ。

ラサがとても近くなった。
旅が何かしら近くなった。

丁度、先日、麻布の萎びた商店街の一角にある
古本屋で旅の本を買った。

景山民生の「旅立てジャック」だ。
最近、景山さんの本を濫読しているのだけれど、
これは初めて手にする。

丁度、その商店街のクリーニング屋が混んでいて、
待ち時間つぶしに寄ったのだ。


彼は言う。
それまでタイ料理、特に、トムヤンクンが食べれなかった。
あのパクチーとレモングラスが駄目だった。

しかし、あるところで食べたトムヤンクンのお陰で
大好物になってしまった。

それは、タイのシーロムに近いレストランだった。
そこで彼は、何が今までのトムヤンクンと違ったのか考える。

そうだ、今まで食べていたソレは日本でのタイ料理だった。
しかし、今回はタイのトムヤンクンだ。

味や中味は違わないかも知れない。
しかし、明らかに違うことがある。

それは、このタイの温度と湿度の中で、そして屋外のガーデンテラスで食べたからに違いない。

そのように、食事というのは、中味よりも
時に、「どこで」食べたかが重要だったりもする。

そして、何より重要なのは、with whomだったりもするのだけれど。

そこで、様々な記憶がよみがえる。

海外で食べた一番美味だったものは、何だろうか。
1つすぐに浮かぶのは、イタリアのミラノのピザだった。
そのピザは旧市街のような人のいない寂れた通りにあった。
ホール1枚が5ユーロ程度で食べる事が出来た。
目の前で、ピザ生地をまわし、
そして、釜で一気に焼き上げる。

薄い。
そして、絶品のトマト。まさに珠玉の、といっても良い程の
みずみずしいトマトとバジルのマルガリータ。
それは、外せない。

タイといえば、去年の誕生日に食べたトムヤンクンも外せない。
プーケットの改装したばかりのレストラン。
夕日が一望でき、いささか風が強かったけれど、
それは唐辛子の暑さを冷ますには丁度良い風だった。

詮無い止め処ない話だ。
よそう。

いつもどおり、原田ライブラリを検索。

チャップリン

イギリスでちゃんとした食事をするなら朝食を4回とれ

うむ。
朝食は良いですね。
といっても、ここ三ヶ月、同じサンドイッチをずっと食べているような気がする。
むしろ、珈琲がメインだったりする。
近所のニッシン(外国の食品メインのスーパー)で
缶きりであける馬鹿でかい珈琲を買って、
こぽこぽと入れる。
珈琲が入るまでの5分間で、新聞を取りに階下に下りる。
部屋に戻ると、珈琲の匂いが部屋中に満ちている。
それが私の朝食においてのメインのような気がしないでもない。


美味礼讃で有名なブリアサバランの箴言。

どんなものを食べているかいってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう。

しかし、あれですよ。
食事いって、メニューを選ぶという事程、苦痛なものはないですよ。
ええ。

その点においては、自他共に認める優柔不断ですよ、ええ。
そりゃね、一人だったら、さくーっと決めますよ。
瞬殺ですよ。

しかしですね、
一人でない場合、
そりゃ友人や上の人や異性や犬や獣等いろいろなケースがありましょうがね、
その時に、メニューを決めるというのは、
あまりにも多くのファクターを加味したベストソリューションを描かねばいけないのであって、
それはあたかも一種の芸術のようにさえ思えるわけです。
乱数の世界ですよ、むしろ。まだ、カオス理論の方が助かる。
皆が何食べたいかを推測するなんて、不可。
2人なら、尚更不可。なぜなら、配分が1/2になるということは
ミスはそのまま母数に返ってくるから。
ゆえにですね (以下めんどくさいので略

そしてゲーテ

涙とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない

ま、有名な言葉ですね。
「性病になってみるまでコンドームのありがたみはわからない」と嘆いた友人の声にも似てますね。
「精液の味は、味わってみるまで解からない」と吐き捨てた友人の声にも似てますね。
「ゴムのフェラは、生よりも触感はましだが味はどうかと思う」と達観した友人の声にも似てますね。

そうだ。
最近、下ネタ系を書いてなかった気がする。

なんかないかな。

そうだ。旅で書き始めたのに
食事になって、さらにゴムの話にいってしまった。

えっと、旅とエロですか。

コロンビアでは女性と目があったら
それが「寝れる」という合図らしいですよ。
ブラジルで会ったイケイケパッカーが言っていました。

あるいは、プロのネゴシエーターの話。

普通だったらキャッチの人は「いいねーちゃんいるよ」と
自分が契約しているネーチャンを紹介するわけですよ。
まぁ、チャンネーというよりも店なわけだけど。

でも、コロンビアの場合は一味違う。
「こういう子がいい」というと
街中でそういう子を捕まえて契約するそうな。
アンビリーバブルですよ。一人アリウープの世界ですよ。

キャッチとガールハントと売春が組み合わさった
まるでデリバティブ取引かってな話で
高度化された、そして洗練された資本主義経済の匂いを感じます。
経費で落ちるのでしょうか。


ともあれ旅である。

旅の利点は、
それが日常と切り離されている存在だからである。
故に、旅が日常というものは、私的には矛盾した言葉であり、認められない。
旅が日常になった途端、それは旅ではなく、通勤である。

台所でセロリを齧ってビールを飲んでいると僕は言った。
そういうのって惨めね、とユキは言った。

それほどでもない、と僕は行った。
もっと惨めなことは幾らでも在る。
彼女がまだよく知らないだけのことなのだ。

投稿者 kaz : 21:38 | コメント (2) | トラックバック

劇団ブサイコロジカル。:第2回公演【イロトリドリノセカイ】チケット発売!!

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ブサイコの第二回公演のチケットが発売開始されたそうですよ。

もう一回目から8ヶ月?9ヶ月?
あっという間だなぁ。わくわく


下記詳細。
このテンプレは某ウェディングプランナーのブログからぱくりました。

===


『劇団ブサイコロジカル。』
http://blogical.jp/
第2回公演【イロトリドリノセカイ】チケット発売!!

チケット購入ページ
http://2nd.blogical.jp/

本番まで残り2ヶ月!キャスト・スタッフともに公演当日に向けて日々稽古と準備に勤しんでいます。 旗揚げ公演をご覧頂いた方も、旗揚げ公演後にブサイコロジカルに出会った方も、是非ご覧にいらしてください。
みなさまにお会いできる日を劇団員一同心より楽しみにしております。

劇団ブサイコロジカル。
第2回公演 【イロトリドリノセカイ】

会場:アイピット目白(JR目白駅から7分)
地図:http://www.aye-pit.com/contents2.htm
(ページ下に地図あります)
日時:8月30日(水)19:00~
   8月31日(木)19:00~
   9月 1日(金)19:00~
   9月 2日(土)14:00~ 19:00~
   9月 3日(日)13:00~ 17:00~

脚本・演出:工藤もぐら
キャスト:南さゆり
     福山剛史
     大村俊輔   

チケット購入ページ
http://2nd.blogical.jp/

投稿者 kaz : 19:53 | コメント (0) | トラックバック