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2006年02月19日
知は力なり
フランシスベーコン大先生は、そう言った。
「知は力なり」と。
どうやら元はラテン語らしい。それを英語の「Knowledge is power」に
約したのがベーコンだ。
cf 園長日記: 知は力なり
と。
Scientia est potentia
僕がこの言葉を最初に聞いたのは、高校生の最初の
倫理だか歴史だかの授業だったような気がする。
もしかすると、本からかも知れない。
そうだ、読書からのような気がする。
まさに、僕の頭の中はタブララサ(白紙)である。悪い意味の。記憶力がない。
※原意 Art Words - artscape
さて、それを金科玉条、として行きようと
16歳の僕は思った。
本当かどうかは知らなかった。
そのテーゼが嘘だったとしても、まぁ、リスクは少ない。
今でも、それが「妥当な仮説」かどうかは解からない。
なぜなら、腕力もなく、金もなく、地位もなく、コネもなく
何もなかった僕が、唯一持てる力は、自分で努力して得ることができる力
だからだ。
もちろん、腕力も金もコネも、努力すれば手に入ることが出来るだろう。
しかし、僕が、それらを得るには、自分は未熟すぎる、と思った。
ポテンシャルを持たないと判断した。
だから、とりあえず「知」を得るのだ、と思った。
ポテンシャルがなかったとしても、
他の選択肢の中から相対的に、可能性があるのを選んだ。
つまり、消去法だ。
世界は、サバイバルだ。
甘くはない、ならば、Powerが必要だ。
それならば、知が力ならば、僕は知を得るしかない。
生き残るための、選択だった。
ベーコン先生の言う「知」は
インテリジェンスの知が原意ではあるけれども、
実際のところ、本位はどうなのかわからない。
つまり、Witnessなのか、Clevernessなのか、
Knowledgeなのか、intelligenceなのか。
僕は、頭はよくなかった。
だから、「回転の速さ」や「理解力」や「クリエイティブネス」の力を
もっていなかった。
ならば「知識」を増やすしかない。
これも、消去法で僕は考えた。
そこから、ひたすら、モノを覚えようとした。
ただ、闇雲に学んだ。
本を読んで、新聞を読んで、そして、映画を見た。
漫画を読んだ。知に関すると思われるものならば
何でも見たように思う。
映画なんて早送りしながら見た。
速読を身につけた。
常にスピードと戦えるように
本を読み終わったら、裏表紙に、読んだ日付とかかった時間を書いた。
そして、感想を簡単に書いた。
今は、あまり書かないが、
今でもそれらの本は残っている。
例えば、村上春樹の「ねじまき鳥 クロニクル」
それは、1998年の12月31日の日付が入っている。
時間は、2時間34分。
上下の二冊にしては、それなりに早い。
感想は拙いものだけど、
「何かを得なければ読書の意味がない」と考えていた僕にとって
読んだ感想をアウトプットするのは、仕事であった。
多いときは、1日9冊よんだ。
高校三年生の冬だった。
その記録を抜いたのは、大学1年生のころだ。
確か13冊だったと思う。
朝起きてから、寝るまで、食事と走る時以外は
ずっと読んでいた。
夏休みだったように思う。
小説と哲学書、実用書をミックスさせて
ひたすら読んでいた。
特に、高校のころが、取り付かれたように
本を読んでいた。
自分が読んでいない、知らない本があるのが
許せなかった。
岩波文庫を全部読もう、とまで考えた。
一番難しいのから手をつけなければいけない、として
カントの純粋理性批判を、大学受験の最中に読み終えた。
そして、マルクスの「資本論」を読んだ。読みながら
寝てしまうこともしょっちゅうだった。
でも、この時代をつくった本は、読まなければいけないと思った。
読みたいのではない、読まなければ、と。
哲学書だけではない。
小説も、有名なものは読むべきだと考えていた。
20世紀最高の小説と言われている
プルーストの「失われた時を求めて」と
ジョイスの「ユリシーズ」は、必死で読んだ。
前者が9冊かな?後者が三冊。
両方あわせて2万円くらいかかったように思う。
哲学書は、そもそも、興味があって読んだのも大きい。
そこら辺にいる子供と同じように
僕も、死が怖かった。
死を恐れ、母親が死ぬことに恐怖していた。
幼稚園のころは、母親が外出し帰りが遅かった時は、
「死んだんだ」と思って号泣していた覚えがある。
そして、僕は必然的に、死について学ぶようになった。
一種の通過儀礼であろう。
下記、参考のために、死についての僕が歩んだプロセスを記す。
参考のためなので、参考にならない人は読み飛ばして頂けると、とても幸い。
春樹が「死は生の対極でなく、死は生の一部である」と言ったように
死は、僕の身近にあった。
曾祖母が他界し、祖父が他界し、叔母が他界した。
小学校のころだ。そして、それからも祖母、祖父、叔父と多くの身近な人が
死んでいった。もちろん、これはどこにでもある話で珍しくない。
ただ、純粋なる思い出話として、僕は、お経を暗誦していた。
死を超えなければいけない、と考え、哲学の世界に入った。
キルケゴールはカトリック過ぎで肌に合わなかった。ヘーゲル・ハイデガーが
気に入ったけれど、かなり難しくて吐きそうになった。得に「存在と時間」は
論文にも使ったのだが、めまいがした。実存在というものを手探りしながら
そして、こぼしながら読んでいた。しかし、わからないながらも
認知しない段階で知覚していたのだろう。少しずつ死への恐怖は薄れていった。
そしてアリストテレスによる死の解釈(=生の解釈=背景にいる存在の証明)に
得心し、僕は、いつしか死を恐れなくなった。多分、死とは、対面するものではなく
遠くに見えるそれに近づこうというプロセスが死を克服することなんだろうと思う。
それでも、僕は死は怖い。いや、いつ死んでも良い、という覚悟は常に
しなければいけないと考えている。
そして、以前、思考実験をしたことがある。つまり夢で死んだのだ。
その時、僕は、死を恐れ、生きようとした。
汗でぐっしょりになり、飛び起きて、僕はまだ、自分が死を恐れていることを知った。
死を恐れる者は弱い。
いままで二度、死にそうになったことがある。
公言するものではないが。高校のころと、海外の戦場でだ。
やはり、死が怖い、というのが、事実であろう。
これを、超えるのは、一体どうすればいいのか方法はわからない。
知は役に立たない。
それと関連して
「守るべきものを持つ者」と「持たない者」が
どちらが強いのか、と論争をしたことがある。
例えば、子がいる親は子のために強いという。
しかし、逆に、その筋の人にとっては、失う者がないから強いとも言える。
その結果は、もちろんでないだろう。
しかし、ロングスパンで見れば、きっと
前者の方が強いのだろう。持たない者は、タフさがないのだ。
そういえば、ドストエフスキーも「To have or not to have」
という本を書いている。興味深い一冊だ。
(タイトル間違ってたらごめん。持つ者と持たざる者、だったはず)
つまりはそういうことだ。
死を超えることが強いのか、あるいは死を恐れるのが強いのか。
ただ、解かるのは、ショートのスパンでは、
死を恐れる者は弱いような気がする。
わからない。
ともあれ、そんなこんなで
僕は、とりあえず知識を詰め込んだつもりだった。
もちろん、世界は広い。
僕は井戸の中にいただけだった。
ミジンコ程度の知も得ていない。
それでも、僕は両手を挙げることは出来ない。
降参することは出来ない。
生きていかねばならない。
僕が強くならなければ、子を誰が守るのだろう?
彼女を誰が守るのだろう?
たとえるならば、だけれども。
もっとも so what?と言い返されれば
何もいえないのだけれども。
それが、僕の20代前半までだったように思う。
特に22歳までの僕は、知というものにおびえ、
取り込もうと必死だった。
引きこもりだった、と言えるかも知れない。
一週間で、6日間は家に引きこもり、
30冊の本を読むのは、ナウイことではない。
知は力なり、とは本当だろうか。
少なくとも知識だけで、世界を2つに割ることは出来ないだろう。
フーコーは言う。
知識とは個人の存在を守るべく役にたつものであり、
また外部の世界を理解させてくれるものなのです。
生きていくための手段となるものなのです。
本当かどうかはわからないし
今となっては、どちらでも良い。
もう僕も25歳で戻るのはいささか億劫だ。
いささか年を取った。
知を得るにも、頭は老いたと実際に感じる。
今では、こっちの言葉の方が身体に染みるようになった。
ジョンガンサーという評論家の言葉だ。
幸福はなべて贅沢な朝食にあり
投稿者 kaz : 2006年02月19日 12:29
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コメント
車が側にせまった時やセックスの時なんかに、このまま死んでしまいたいと思うことがよくあります。でも自分以外の死は嫌なんですよね。想像するだけで涙が出てくる。知でも子でも、強くなれないです。私は。
投稿者 アイバミカ : 2006年02月19日 14:27
ですよね!!
「ああ、もう、いいや」って思うときありますよねー。
あの感覚を感じない人もいるそうで、
昔、びっくりした覚えがあります。
死にゆく者は、幸せ
という言葉がありますが、
「死が辛い」のは、
やはり残された者にとっての辛さなんでしょうねえ。
同感で御座いまする。
コメントありがとうございますっ。
わぁい。
投稿者 原田 : 2006年02月19日 16:42
知は力なり。
このことを最初に言った人の本意はよくわかりませんが、私自身は現代においては、
「知恵」は力なり。(「知識」は力なり、ではなく)
と、解釈するのがいいと思っています。
「知恵」というのは、既にある「知識」を組み合わせたり加工して、新たな考えを構築して行くことで、「知識」というのは何を知っているかということだと思います。
たとえば、長い棒と、椅子と、サルがいて、サルの手が届かないところにバナナがあったとします。サルは、椅子は座ったり、飛び跳ねるために使ったり、遊んだりできることを「知識」として知っています。また、棒を使って、嫌いなサルを威嚇したり、手の届かないところのものに到達できるという「知識」を持っています。しかし、サルはその長い棒と椅子を組み合わせることによって、バナナを落として、それを食べることができるという「知識」は、まだ持っていません。
それで、その長い棒に関する「知識」と椅子に関する「知識」を組み合わせて、バナナを落とせることを試行錯誤の上に考えだすわけですが、その過程が「知恵」ということになるわけです。
20,30年前は、何か「知識」が必要であれば、親も含めて年上の人に聞くか、そうでなければ辞書や百科事典を調べたものです。もし、そういう辞書や辞典が家になければ、学校や図書館まで行って調べたものです。そして、「知識」を与えてくれる年長者、辞書、そして辞典といったものは、とても敬われたのです。
しかし、今やgoogleそしてwikipediaなどがあり、「知識」というものは非常に簡単に得ることができるようになりました。言い方を変えると、現在では「知識」というのは非常に安いものになってしまったわけです。
「知識」は簡単に得られるので、その「知識」をどう組み合わせて「知恵」を生み出していくかとうことが、現代では重要になっていると思います。この「知恵」といいうのは、昨今言われているクリエーティビティーだとかオリジナリティーなどという言葉とも同義であると思います。
年配の方、特に団塊の世代も含めてそれより年上の方達と話してよく思うのは、「知は力なり」=「「知識」は力なり」」と思って若い世代に話しているのを良くみにかけます。が、若い世代は、「そんなの、googleやwikipediaですぐわかるよ」と、思っていてつまらない話だと感じていると思います。若い世代は、年配の方にどんな「知識」を持っているかではなく、どんな「知恵」を持っているかを期待しているのでしょう。
アインシュタインが、「物事はできるだけ憶えるな。なぜなら、それは全て本に書いてあるから」と、言ったとか言わなかったとか。それを現代版におきかえると「物事はできるだけ憶えるな。なぜなら、それはウエッブでわかるから」ということになるのでしょう。知ったことを、どう加工して再構築していくか、ということがこれからは特に重要だと思います。
私は、そういう意味で、「知識」ではなく、「知恵」がこれからますます価値を見いだしていくと思います。
投稿者 知識 vs. 知恵 : 2006年11月14日 20:05
知は力なり。
このことを最初に言った人の本意はよくわかりませんが、私自身は現代においては、
「知恵」は力なり。(「知識」は力なり、ではなく)
と、解釈するのがいいと思っています。
「知恵」というのは、既にある「知識」を組み合わせたり加工して、新たな考えを構築して行くことで、「知識」というのは何を知っているかということだと思います。
たとえば、長い棒と、椅子と、サルがいて、サルの手が届かないところにバナナがあったとします。サルは、椅子は座ったり、飛び跳ねるために使ったり、遊んだりできることを「知識」として知っています。また、棒を使って、嫌いなサルを威嚇したり、手の届かないところのものに到達できるという「知識」を持っています。しかし、サルはその長い棒と椅子を組み合わせることによって、バナナを落として、それを食べることができるという「知識」は、まだ持っていません。
それで、その長い棒に関する「知識」と椅子に関する「知識」を組み合わせて、バナナを落とせることを試行錯誤の上に考えだすわけですが、その過程が「知恵」ということになるわけです。
20,30年前は、何か「知識」が必要であれば、親も含めて年上の人に聞くか、そうでなければ辞書や百科事典を調べたものです。もし、そういう辞書や辞典が家になければ、学校や図書館まで行って調べたものです。そして、「知識」を与えてくれる年長者、辞書、そして辞典といったものは、とても敬われたのです。
しかし、今やgoogleそしてwikipediaなどがあり、「知識」というものは非常に簡単に得ることができるようになりました。言い方を変えると、現在では「知識」というのは非常に安いものになってしまったわけです。
「知識」は簡単に得られるので、その「知識」をどう組み合わせて「知恵」を生み出していくかとうことが、現代では重要になっていると思います。この「知恵」といいうのは、昨今言われているクリエーティビティーだとかオリジナリティーなどという言葉とも同義であると思います。
年配の方、特に団塊の世代も含めてそれより年上の方達と話してよく思うのは、「知は力なり」=「「知識」は力なり」」と思って若い世代に話しているのを良くみにかけます。が、若い世代は、「そんなの、googleやwikipediaですぐわかるよ」と、思っていてつまらない話だと感じていると思います。若い世代は、年配の方にどんな「知識」を持っているかではなく、どんな「知恵」を持っているかを期待しているのでしょう。
アインシュタインが、「物事はできるだけ憶えるな。なぜなら、それは全て本に書いてあるから」と、言ったとか言わなかったとか。それを現代版におきかえると「物事はできるだけ憶えるな。なぜなら、それはウエッブでわかるから」ということになるのでしょう。知ったことを、どう加工して再構築していくか、ということがこれからは特に重要だと思います。
私は、そういう意味で、「知識」ではなく、「知恵」がこれからますます価値を見いだしていくと思います。
投稿者 知識 vs. 知恵 : 2006年11月14日 20:05
コメントありがとうございます。仰るとおりなのですが、しかし、最近、ふと思うことがあります。
ネットの普及などで知識は膨大になりアクセスもしやすくなりましたが、そもそも知識の素地がないと、そこにアプローチする方法や、概念さえも把握できないのではないかと。
つまり、五大湖という概念を知らなければ、ミシガン湖の所属する都市を検索することさえも叶わないように。
あるいは、サクラダファミリアという名前を知らなければガウディを検索できないのと同じように。
もっともバランスというものがあるかと思いますが。
ありがとうございました。
投稿者 原田 : 2006年11月21日 01:31