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2006年01月30日
新聞紙

物心ついた時から、新聞が好きだった。
多分、おとんの影響だろうと思う。
家にいる時の父親は食事をしているか、
新聞を読んでいるか、が主だった。
だから、僕の子供のころの父親像というのは、
「新聞を読んでいる父の背中」という記憶が強い。
小学校に通ってない子供にとって
父親は畏怖の対象であり、同時に
エイディプスコンプレクスとしての羨望の対象であった。
そんな僕は、自然とテレビ欄を見るようになり、
3面を読むようになり、
中学校に入るころには、
市民の声のあざとさを知るようになった。
そんなこんなだから、
僕が、新聞を好きなのは
純粋に「経験」によるものだと思う。
つまり、生まれてからパクチーを自然に食べてきた人が
パクチーを好きになるように。
ドラえもんを愛読した人が、静ちゃんに恋するように。
「Practise makes Parfect」というわけだ。
三つ子の魂ひゃくまで、というのもファクトの側面はある。
僕は、いまでも、やはり新聞が好きだ。
さすがに20年も毎朝携わっていると、
その匂いは、肌触りさえ、居心地のよいものに
思えてくるから不思議である。
だから、昨今
ネットの存在による新聞の存在感の動向が問題になったとしても、
僕にとっては、新聞は欠かせざる友であるから、
ネットとは、別次元で存在しているのである。
多分、今でもレコード愛好家がいるのと同じことだと思う。
それと同じく、僕は紙を欲している。
例えば。
そして、高校のころからの癖として、
僕は新聞をついスクラップにしてしまう。
スクラップブックは、20冊前後になった。
毎日、大体、2~3個の記事を切り取ることが多い。
今日は、この2つだった。
「タイの新規公開株 日本で11年ぶり再開」
「火星での食料、カイコが最適」
ベタ記事的な扱いをされていたけど、
なんだかひっかかった。
少なくとも、
このニュースを僕がネットで見ていれば
興味を惹かれなかっただろう。
2chのニュー速からだって、
惹かれなかっただろう。
多分、この新聞記事の小ささが
僕をひきつけたのだろう、と思う。
だから、どうってことはない。
それ以上でも、それ以下でも。
ただ、思い返すに、新聞が、
僕に与えた影響は大きい。
ビレッジバンガードが、私に
ポールオースターを教えてくれたように、
新聞は、僕にピエールプルデューと、
ブランド国家論を教えてくれた。
日曜日の書評欄が特に好きだった。
なぜか、論説は嫌いだった。
天声人語より、産経抄が親しみが沸いた。
産経、朝日、読売、ヘラルド、日経、日経流通と読んできたけれど、
どれもこれも味がある。
個人的には、やはり、産経の夕刊のサラリ君が懐かしい(朝だったっけ?)
関東では、夕刊がなくなったけれど
関西では現役だ。
あるいは、ヘラルドは世界中で読めたのは強かった。
自宅で読んでいたものが、アフリカでも読めることの嬉しさ。
インターネットとは異なりながらも
「世界は繋がっている」と感じることの、うさんくささ。
それでも、孤独な海外では、それのもつ力は否定できない。
何より、新聞は、毎朝の習慣になっているのがいい。
新聞のない朝の味気ないこと。
きっとそれは、「世界不思議発見」のない土曜日のような。
あるいは、「ONE PEASE」が休載の時のジャンプのような。
または、コウダクミが登場しない06年初冬のチャートのような。
そんな寂しさが、そこにはある。
投稿者 kaz : 2006年01月30日 19:51
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