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2003年11月01日
本屋3
none amy の本屋ネタを孫パクリで続ける。
ビレッジバンガードをビレバンと訳すのは知らなかったが
あそこの本屋は、amyも言うように非常に面白い。
結構、そこらに出店しているので有名だと思われる。
雑貨屋かと思えば、本屋なのである。
何が違うかといえば、本の趣味が凄い。
もう全力投球で、偏った本のセレクトだ。
はまると抜け出せない。
ちなみに僕がよく行くのは大阪、難波の日本橋近くにあるやつだが、
そこの本のセレクトは現代日本作家であれば
春樹、龍、詠美、筒井、バナナとかがメインだったような気がする。
ちなみに僕がポールオースターとであったのもココだ。
ちなみに、こないだは、マウスの形をしたローターを買った。
ジャンクな輸入物も、かなりイカシテイル。
関東では、桜木町とお台場のとこに結構行った。
で、本屋とは、すなわちそれ、安らぎである。
特定の人にとっては。海外などに居ると、日本の本屋を見つけると、入り浸ってしまう。
マンハッタンの国連ビル近くにある紀伊国屋にはどれだけ足を運んだか。
高いのが痛いのだけど。
関東の本屋シーンは詳しくないが、
関西で、最初に座れる本屋を導入したのはジュンクドウである。
しかも関西1のフレコミだった。
1万円以上買うと、ただで自宅まで郵送してくれたので大いに利用した。
本は、重いのが難点だ。
関東でよくいく本屋は、なぜか渋谷のブックファーストで理由はなにもない。
別に、ここのメリットはないのだが、
渋谷をよく経由したり待ち合わせするので、そのついでにいくことが多い。
あと大学の生協もフル活用である。バックナンバーをしっかりしているときもあり、
なかなか見逃せない。
最近は、もっぱら外に出るのがめんどくさくてネットで本を買うことが多い。
特に中古とかだとネットが多いに利用できる。
高いのだと5000円を軽く超えるので新刊などではとてもじゃないが、かってられない。
古本やマンキツは、最近、つとに多くなって
いかんせんピークの感もするがぶっちゃけ、出版業界を破壊するのではと恐れている。
本すきとしては、それが怖い。
もちろん、自分も活用するんだけどねマンキツはいったときないけど。
ただ、最近、本の量が多すぎで、置くところがなくなってきた。
困る。どうしても本って買ってしまうのだがその性格を変えて、
図書館を利用したほうがいいかもしれないでないと、出費も尋常じゃないし、やってられない。
本もネット時代とはいわれるがまだまだ本や新聞は、
触りながら線をひきながら読みたい古い人間です。
投稿者 kaz : 14:47 | コメント (0) | トラックバック
目標
まず、人生は儚いという仮説からはじめたとする。
儚いということは、短いということである短いということは、
時間が足りないということである短い方がいい、
というのはセックスの嫌いな女くらいしかいない。
で、こんな帰納法を続けてもしょうがない。
で、時間がなければ、どうするか?
人生に目標があるとする。
そうした場合、ほかのことを犠牲にしてでも、その目標に時間を費やす。
しかし、目標がなければどうするか?
その場合には、別になんらこまらない。
人生楽しんだほうが良いのである。
しかし、往々にして、日本の社会で働いていると、
仕事に時間をとられ自分の時間が確保できないのは事実である。
今、日本の社会、と言ったのはほかの国より事情を知っているからであり
「日本の社会だから」ということではない。
で、目標は、「あるべし」とはいわない。
この人生、何でもありなのがルールのようなので
別にあるなしの価値観は問題ではない。
しかし、若いうちは人生に目標があったほうが、
「らしい」のである。で、そのときかかわってくるのが幸せというものである。
こないだamyのレスに幸せとは目的でなく感情、
みたいなことを書いてみたがそれを考えると、幸せというのは、
目標になるべきではないのである。
しかし、普通に考えると目標達成をなぜ、志すかということやっぱり、
それなりに幸せというものが噛んでくるのが一般的である。
でも、もちろん例外はある。しかし、例外は例外として放置。
この世に例外のないものはない。
で、目標の設置は、どのような観点から決められるかというと、
それこそ各々の価値観にかかわってくるわけで非常に難しい問題ではあるが、
ぶっちゃけ、なんだっていいのである。
これは消去法で、定めることもできる。
あるいは絞ることもできる。
こんなことはしたくない、という観点からである。
ほかに人生設計なり、グランドデザインなりを考えてからの目的設定がある。
これは、人生に起こりうるさまざまなファクターを考慮しての設定である。
で、何が言いたいかというと、何もない。
いつものごとく、甘ったれ、という単語をタイトルにぶち込んで、その連想のまま書き綴っただけ。
投稿者 kaz : 14:47 | コメント (0) | トラックバック
目標2
さて、特筆すべきことでもないから前の日記を掘り返して、続き。人生に目標は必要である、という仮定を論証できるかやってみたい。いま、ふと思い付いただけなので、できるかどうか知らない。で、どこから手を付ければいいのか。うーん、目標の定義か。目標とは、何かしらの目指すものである。つまり、将来において、「コウアレ」というようなイメージである。もちろん、死にたいだとか、堕落したいとかいうのも目標だし、何もせずにマッタリすごしたい、というのもそうである。何もしないで過ごす、というのも立派な目標である。で、もしそれらがないとどうなるか。自分の行動に一貫性がなくなるのは確かでしょう。いや、性格に規律される一貫性などはあっても、あるいは、嗜好による一定のパターン化はあっても、将来のとある点に向かう行動としての一貫性はなくなる。つまり内的なベクトルは存在しても、外部に向かうベクトルというか、道標がなくなる。で、そうなるとどうなるかというと実は何も困らない。ただ、しかし、それだと、日常を消化するだけになる。つまり、どんな些細なくだらない目標あるいは目的でも構わないが、それがあれば、一応ゴールがあるため、日常はそのゴールへの過程と変わる。もしゴール、つまりは目標がなければ、日々は、ただ死までの時間潰しにしかならなくなる。もちろん、目標は達成される必要はない。なんらかの方向性さえも必要ない。ただ、そこに前進しているという意識だけが必要なのである。たとえば、明日、ご飯を食べよう、といった目標でさえあるだけで、今日の行動が変わる。いや、変わらないかも知れない。でも、その目標があるだけで、とりあえず明日のそれを意識する。明日というものをイメージする。でないと、明日なになにしよう、という仮定ができないからだ。で、そうすることによって何もかわらないかも知れない。しかし、今日という日付が任意の一日から明日の前日という特定性を持つようになる。それによって、日常における区分をつけることができる。ふむ、ここまで書いてふと思ったが目的により人生の時間軸が生まれるという作用があるかも知れないしかし、これだとハイデカーと同じ論法になるなぁ。うーん、もっと簡単に下らない論証はできないか。うーん、次は人間の性質に移ろう。人間は生きている。しんではいない。生きているということは時間が経過するということだ。時間が経過するということは時間を使っているということだ。何もせずとも、時間が失われていっている。その代償に、老化する。時間を得る変わりに、自分の肉体を浪費する。浪費でもないか、消費する。で、時間を消費するということは、その時間に意味が付与されるということだ。なぜなら意味がなければ、消費はされないからだ。人間という機能面から考えたときに、人間の生物学的な行動にはすべて意味がある。あくまでも生物学的にだが。で、意味があるということは、そこには、何かしらの始まりと終わりがなくてはいけない。意味とは、それだけで一つの指向性をもつからだ。よって、その意味は結局のところ、何かしらの目的を求める。で、背反的に、目標なしでは、人間は時間を消費できないのだから時間を消費している以上、目標はそこに存在する。証明終わりあー、ぱっとせんし論理的でもなんでもないや。まー、いいやね。けっ