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2002年11月20日

言葉

私は言葉を愛する。
どれくらい言葉がすきかと言うと、
程度の差はあれ、
英語、スペイン語、アラビア語、フランス語の授業を取っている。
勢いあまって、C言語、Javaまでとっている。
(計週13時間半)
HTMLも、まあそれなりに。
古文は「源氏物語」を古語で読めるし、イタリア語、ポルトガル語も、簡単な言葉だったらニュアンスも読める。
中国語とドイツ語は少しだけ齧った。漢文も読める。
昔の杵柄で、義太夫の「外郎売」もそらんじられる。
ソシュールもヴィトゲンシュタインもハイエクも、たいていの哲学や心理学は齧った。ジョイスを愛読すれば、カントも読んだ。
広告におけるキャッチコピーの勉強もしたし、倫理学もした。
言葉に関する蔵書は200を有に超える。
「禁忌の歴史」「差別語」「Eメールの書き方」「敬語」「言語起源」「散文」「詩」「比喩・隠喩・換喩」「発音」「英語関係」「テクニカルターム」「流行語」「韻」「言語デザイン」「記号論」「構造主義」
それくらい言葉が好きだ。

しかし、アメリカで色々思ったのだが、
やはり日本には、「言葉に出す」ということが、少ないように思う。別にアメリカ一番を掲げるつもりは毛頭ないし、日本の奥ゆかしき文化も好きだ。

確かに、人間のコミュニケーションにおける言語の役割は3割に満たない(確か)。
しかし、その3割が非常にクリティカルであることもあるのだ。
非常に重要なことだってあるのだ。

認知科学という授業をとっている。
認知言語学をする。
非常に興味深い。
認知言語学の底に流れる二元論は、人間だけがなぜ言語をしゃべれるかに集約されるように思う。

言葉を愛すれば、愛するほど、言葉は口に出せない。

しかし、言葉にしないと、どうしようもないことだってあるのだ。

黙ったまま死ぬこともできる。
しかし、それは「容易」なのだ。
黙るより、言葉にするほうが、どれだけ難しいか。
どれだけ辛いか。
どれだけ痛みを伴うか。
どれだけ怖いか。

言葉にすれば、それの全責任が自分にのしかかる。
取り消すことは容易ではない、確かに。

誤謬もあるだろうし、歪曲だってあるだろう。
どう受け止められるかは、相手次第である。
つまり、「言葉が通じる」というのは、つまるところ、共同幻想しかない。

それくらい、言葉というのは厄介なのだ。
しかし、同時に、だからこそ言葉があるのだ。
「愛する」という言葉があるのだ。

喋らないというのは、ひとつの方法だ。
ひとつの意思表示でもある。
ある意味、一つの言葉だろう。
しかし、たいていにおいて、
「喋らない」=「拒否」なのだ。

同じ言葉を喋る者は喧嘩をしないということわざがある。
なければ、今、僕が創ったのだろう。

しかし
イスラエルとパレスチナ
イラクとアメリカ
インドネシアとティムール語
チェチェンとロシア語
ケベックとカナダ
スペインとバスク
パキスタンとインド
日本と韓国

全部、源流の言葉は異なるのだ。
トルコが、20世紀初頭、ムスタファケマルが言語政策をしたように、
はたまた日本が日本語教育を隣国に強いたように、
台湾が、敢えて大陸と違う言語を話すように、
「黒板」の書籍にあるようにビスマルクが言語政策を被制圧国に強いたように、
マクルーハンが「メディアとは言語だ」と言ったように、
ベネディクトアンダーソンが、言語の起源が国の起源だと言ったように、
言葉というのは、我々である。

「始めに言葉ありき」
旧約聖書にもあるように、
言葉は、全ての始まりなのである。

極論を承知でいうが
言葉を使わないと、存在価値がないのである。
一生「無言」のまま、過ごすわけにはいかない。
言葉にしないというのは、人間であることの放棄である。

なぜ、こんなことを
ダラダラと、
さも自慢げくさく、
あほくさく、衒学くさく、
自分でも読みたくない、
自分でも嫌気がする、
吐き気がする、
エセインテリくさい馬鹿露呈の、
いちびり、そんな文章をなぜ、書いたかというと、
それだけ、ちゃんと言いたかった。
卑下ではない。言葉が好きだからこそ、
できるだけ、自分の身丈にあった言葉を使いたい。
こんなインチキ臭い言葉は使いたくない。
「インテリ」なんざ糞喰らえ。
えらぶりなんざ糞くらえ。
知識人なんざ、糞くらえ。
私自身、残念ながら自慢できるほどの知識は持ち合わせていない。
言葉にするに値する言葉さえも持たない。
私は、浅学の徒は重々承知である。
でも、
でも
やはり前置きを置かないと、ダサいメタファーだろうと、ペダンティックな陳腐な言葉だろうと、言葉を重ねたかった。
説明したかった。
伝えたかった。
空振りに終わろうとも努力をしたかった。

言葉にしろ、と。
言葉にしないのは、ある意味、拒絶でしかない。
言葉にしないということは、人との出逢いの拒否だ。
どんな言葉であれ、
言葉にするというのは、コミュニケーションの礎なのだ。
全ての始まりなのだ。
ポジティブであれ、ネガティブであれ、
言葉にすることから、交流は始まる。
討論であったっていい、批難でも、反論だっていい。
そこから、理解への一歩が生まれる。

No words?get out of here
てめえの口は assholeか。
亞か?
言語障害か?S
uck your tongue

である。

ただの愚痴である。
度重なることが、ついこうなってしまった。
ただ、言いたかった。

色々思うところもある。ららら。
別に特定の人にむけた言葉ではない。
ちょっとばかし、何かに駆られて書いてしまった。
もう読み返すのもあほらしい。
では

※何も見ないで書いたから記憶に間違いあるかも知れませんが、その辺は御容赦あれ。
言わんとすることは、間違ってはいない。
たとえ、誤解されようとも。

投稿者 kaz : 2002年11月20日 14:48

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