2002年01月01日
浪漫飛行
今の自分の原風景は、どこにあるんだろう、と考えることがある。
それは、サンタモニカの真っ青な広がる青空でもなく、
土曜日の夜のあらゆる光で溢れた渋谷の109前でもなく、
ましてや、銀杏並木の茂るキャンパスの泡沫でもない。
人生は旅だ、とはよく言ったものだ。
人は、未来永劫、自分の居場所を捜し、彷徨い歩くことを止めはしまい。
それは、家族への望郷の思いであり、愛する人への渇望であり、かけがえのない友情を支える両手の狭間で、人は揺らめく。
なぜ?
なぜ、ぼくはこんなところにいるのだろう、
なぜ、ぼくはこんなことをしているのだろう、
なにを必死な形相で、何を求めて、何をしたいのだろう、
と、ある時、ふっと気づく。
誰しもに、不意に訪れる時間のエアポケット。
溢れ来るルーティンワークに忙殺されゆく合間に、垣間見るその触ることのできぬ空間。
つまりは、時間の反逆、あるいは反動。
磁力が働く。
重力が働く。
引力が働く。
そこには、かならず反動が付きまとう。
必死で生きれば生きるほど、その反動は大きい。
思わず、吹き飛ばされそうになり、その時、しがみつくのは、
なんと日常。
日常が、安心をうむ。
boaringと、嘯いていたあの日々がたまらなく懐かしく思える。
決して、失ってはいけないものだったと、
今更になって気づくのだ。
人は言う。
今だからこそ、そう思えるのだ。
その真っ只中にいては、そうは思えなかっただろう。
人生において、仮定の話はタブーである。
それは、誰も決して、口に出すことはできない禁忌。
しかし、またも、なんたる矛盾。
人は、そこに、仮想の未来を思い描き、かすかな休息を得る。
一体、私は、どこにいるんだ?
と、まるで、小説の主人公になったように、
クールに、つぶやく。
しかし、その彼を取り巻くのは、普段と変わらぬ日常、
ありふれた光景、まさにありふれたLove Stories。
「すまない」
誰にも届かぬ、どこにも届かぬ、虚ろに紫煙と共に部屋に吸い込まれ行く言葉たち。
孤独を呈し、孤高に憧れ、孤立を恐れる、魂の眠る時間、嗚呼。
決して、どこにもたどり着かぬ言葉。
なんと恐ろしい「仮定」。
決して、許されぬ過去、
決して、逃れぬことのできぬ未来。
死は逃げである、とは、生き残る者の妬みである。
しかし、なぜ人は生きねばならぬのか、と問うたら
そなたは、なんと返す?
それだけのものを背負っても、生きることを人に強いるのか?
よそう。詮無いことだ。
甘ったれるな、と人は言う。
甘ったれるな、然り。
甘ったれるな、フザケルナ。
世の中は、まだまだ、面白い。
フロンティアは、まだここに。
努力の報いがないと人は言う。
「どうでもいいよ」と人はいう。
「めんどくさい」と人は言う。
然り。然り。
旅は道連れ、世は情け、袖触れ合うも他生の縁。
どうせ艶なら、やってみな。
やってもダメなら、引いてみな。
引いて花見が咲くものか。
敵も咲く者、ひつかく者、それなら私も足掻く者。
そうだもの、言ったもの。
そうと、あなたは言ったもの。
言ったは、ものの、ものの弾みと私言う。
ものの弾みで、すったもんだの
こんなもんだと、そういう者か?
ものか、九日、49日。
もうそのころには、私はいまい。
しまいに、飛ばねば撃たれまい。
飛ばねば鳴かず食わずの、泣かれまい。
病を怯え、人は問う
とうも哀れ世も哀れ
とかくにこの世は住みにくい。
投稿者 kaz : 2002年01月01日 14:47
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