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走る男

毎週、決まった曜日に走る人がいた。

そして、毎回きっかり同じ距離を走る。5キロ程度を30分くらいで流す。距離はわからない。コースが一定、というだけだ。

かれこれ10年近くになる。

昔はタイムを付けていた。すると風邪を引いている時でも、体調がいい時でも時間は3分以内の違いに止まった。雨であろうと、真夏であろうと3分以内の誤差だった。

ある習慣化された出来事というのは、その行為者のコンディションや環境に左右されず、愚直に邁進していくものだ、という哲学を彼はひっそりと心に閉まった。きっとそれを口に出して言えば、反証や例外が出されて、彼が持つささやかな走る哲学は少し濁ったものになってしまう。

自分の哲学というのは信じるために存在するものだ。それは一種の信仰にも近い。学問としての哲学は議論によって洗練を身にまとうが個人の哲学は真冬の指先を温めるアンカのように、ひっそりと存在すべきものなのだ。

その曜日に彼は走ることを欠かすことはなかった。雨の日は音楽再生機をタオルに巻いて走った。スニーカーは3度代わったけれど、それも彼のタイムを変えることはなかった。

走り終えると、定期的なエクササイズを行う。20パターンのストレッチと腕立て・腹筋・背筋の20回を3セット。きっかり行う。これを終えないと走るという行事は終わったことにならない。正月におみくじが欠かせないように、走るという行為には適切なエクササイズが欠かせないのだ、というのも彼の信仰の1つだった。

「痩せてるね」と言われることがあるかもしれない。でも彼は「走っているから」とは言わない。「そう?」と返す。走るという行為は彼の聖なる儀式であり、それと体系や体調と切り離して考えているからだ。

雨の日やクリスマスに誰かが言うかもしれない。

「雨の日くらい休んで、明日、走れば?」と。

あるいは「クリスマスなんだから振り返れば」と。

「そうね」と彼は応えるかもしれない。でも、黙って走りに行く。いつも通り、音楽再生機を右手に、左手に鍵を。

「そういうことじゃない」と彼は自分に呟く。「この曜日に走る」と決めたら、走れる限りは走ろうと思う。もちろん天災や外部要因によっては走れないこともあるかもしれない。でも、走れるうちは走るのだ、と決めている。

「やるところまでやって、だめだったらその時考える」という別の信仰を彼は持っていた。とりあえず走れるなら走るのだ。

もっともその曜日に海外に居たり、仕事の都合でどうしても走れない時は、すぱっと彼は走るのを辞める。ただ、走れるならば、とことん走るのだ。

コーヒーを飲む時も彼は信条を持っていた。

1杯目は、入れ立てのコーヒーをブラックで飲むというものだ。ポイントは「入れ立て」という点だ。

それは、どれだけ熱くても入って1分以内に彼はそれに口をつける。「アツッ」と決まった台詞のように彼は呟く。

しかし、そろそろと彼は熱いコーヒーを口に運ぶ。

「さましてのんだら」と誰かが言うかもしれない。でも、彼は「そういうことじゃない」と独りごちる。これはもはや、コーヒーとの対峙なのだ。コーヒーが熱くあるならば、彼はそれを受け入れようと思う。

熱がるのはこちらの都合で、コーヒーが熱いのは当たり前だ、と思う。

「ミルクを入れたら」という人もいるかもしれない。

「そうじゃないんだな」と思う。ただ「できだけのコーヒーを熱いうちに飲む」という哲学は、多分そういうことではないのだ。

※この物語はフィクションであり、かつ寓話であろうとする話です。


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コメント (4)

tae:

好きです~
文章も、このアンカなような信仰も、
アツッと言いながら1分以内のいれ立てのコーヒーを飲む、走る男もっ

hisashi:

16行目ぐらいで霧が晴れた。

なんだかイチローに通じるものを感じました。

原田:

>taeさん

わぁ、ありがとうございます!個人の哲学というものは、本当に奥が深いモノだと思うのです。特に背景が。そういう人間味溢れた哲学が好きなのです。

>hisashi

おお、ありがとうございます!

>ミナミリョウさん

あの人、ストイックですよね。昔からの夢をそのまま実現してますし。天才だ・・

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