
先週末は麻布十番祭だった。弊社はオフィスが麻布十番にあるので、何とも姦しいことこの上ない。15時くらいから人があふれ出し、駅はもはや通れないほどの状況になる。
「どうしてこんなに人が集まるのだろう」
と人は口にするのだけれど、多分、当然ながらそれは答えを求める問いではない。世の中には、答えを求める問いと、そうでない問いがあるのだ。たとえば「ちょっと疲れてない?」というような問いのような。
人はなぜ集まるのだろうか。もちろん要素を考えれば「夏の思い出に」「人との交流に」「あわよくば出会いに」「デートのついでに」「近所だからなんとなく」「ポテトをくるくるにして揚げたのを食べたいから」など諸処の理由はあるだろう。でも、それってば、結局、個別論であって、総体にはたどり着かない。戦争を起こる理由が「武器があるから」ではないように。あるいはキューバ危機の理由を、主体の分析から導き出せきれないように。
ただ個別の事象から総体にたどり着くこともある。もっともたどり着かないことも多いのだけれど。今回に関しては、祭りは個別の理由から考えれば「それぞれの思惑の受け皿となりうるから」というとらえ方もできて、そう考えれば、祭りはとても寛容で肝要なるイベントなのかもしれない。
私の地元は岸和田というアグレッシブな街で、そこでは、ダンジリという木でできた戦車が猪突猛進するイベントがある。そこでも、人に問うたならばきっと答えはでないだろう。「なぜあなたはダンジリをひくのですか?」と聞いたところで。
それはいわば、ヘンリー卿が、「そこに山があるからだ」と言った逸話とも同じ話で、人は時に自分で理由を持たぬまま行動する。ただし。ただし、興味深いのは、自分では気づいていなくとも、そこには理由があることが多い。
少なくとも、環境要因と心理要因で分析すれば、環境要因はなんだって作り出せる。もっともそれがアレクサンダーの剣にはならないところがもどかしいのだけれど。
いずれにせよ、祭りというのは、幾ばくかは人の心を盛り上げる。もっとも例外はあるけれども、世の中に例外のない事象はないし、同時に例外だけの事象もない。あるいは例外を持たない例外もなければ、例外を持たない仕様書もない。例外だらけのドキ水泳大会があっても、例外だらけの不思議発見はどうかと思う。
いずれにせよ、そういうことで、祭りには音楽が欠かせない。そう考えると、麻布十番ではあまり音楽がなかったように思う。国際ほにゃらら会場では、J-waveがDJブースを出していたけれど、一般的な祭りで言う打楽器や笛などの音は聞こえない。それは片手オチなんじゃないかと思うけれど、ここは港区。色々大人の事情があるのだろう。
話はそれて思いつきでしゃべるのだが、村上春樹のエッセイに「遠い太鼓」というものがある。海外放浪のエッセイだった記憶があるが、ちょうど私も空港で読んだ記憶があり、旅先で読むのに向いているかもしれない。このタイトルはどこの太鼓の話か憶えていないのだが、村上氏の物語の中で太鼓はある種のアイコンとして存在する。たしかミュウという女性が主人公の物語で、主人公はある街において、どこかから聞こえてくる太鼓の音にひかれ山奥に行くという逸話があった気がする。分析すれば、この太鼓は色々なモチーフになるのだろうけれど、まぁ、表面的で言うならば、太鼓はそのように非日常への誘いを持つ存在なのだ。
だからこそ、祭りでは太鼓が重要視される。と、おお、綺麗にまとまっている、と自分自身で驚き。太鼓はいい。何がいいかというと腹に響くから良い。太鼓は原始のリズムであり、原始女性は太陽であったわけだから、すなわち太鼓=女性である(全然違う)。昨今、太鼓の達人やiPhoneのTapTapが人気を得ているのも、太鼓が持つ古来からの人を鼓舞する何かしらが、人のDNAを刺激しているのだろう。古来、戦の始まりには、戦いのドラムや法螺貝がけたたましく鳴り響くように。
#太鼓の目覚ましがあれば需要はありそうなのだがどうか。