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2008年07月 アーカイブ

2008年07月06日

青春と夏と逍遙

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注:またも駄文になってしまった。ライトに書こうと思ったのだけれど、どうしても厄介な文章になる。癖だろうか。ごめんなさい。ご容赦くだしあ

先日、所用で大学に行った。まぶしかった。この眩しいというのは日光が眩しいのではなく、何かしら慣用句としての「眩しい」印象を受けた。もちろん初夏であるゆえに梅雨の合間のまぶしさは十分まばゆかったのだけれど、それ以上に、学生が持つエーテルというような目に見えない物質が発散するまぶしさ。いわば、怠惰に流れる時間をもてあます自由とそして何かを探しているのに探しているものが見つからないというようなもどかしさが混ざったようなまぶしさ。#ffcc99というかなんというか。

でも、ふと、何かしらそのような「青春なるもの」のイデアを回顧している自分をメタ認識し、それに嫌気がさしとりあえず自動販売機でコーヒーを飲んだ。いつもはカフェオレだったのだけれど、その時ばかりはブラックで心なしか社会人となった我が身を衒い、そしてシャツをパンツに入れ直した。チャックはしまっていなかったかもしれないけれど、記憶にはない。そんな1日があって。

そんな折、はてなブックマークで「青春写真(R18)」の記事があがっていて、それを読むに、まさに青春のもどかしさや性欲へのひたむきな視線を真に受けてしまって、なんというか、ホトホトした。「返らぬ青春とは悲しいものだが、去らぬ青春はなおさら悲しい」というような誰かの名言を思い出して、青春が持つ何かしらのドグマをふと考えた。青春とは過ぎ去るべき対象であって振り返る対象ではないのではないか、というような。人生にはそれぞれのフェーズがあって、そのしかるべき時にしかるべき時間を「消費」することを義務づけられていて。たとえば幼少期の悩みであったり、部活の暑さだったり、受験の眠気であったり、黒板消しの匂いであったり、そして青春のまぶしさであったりとするようなものは、消費の対象と存在するような気がした。ボードリヤールさんはそれをなんと言ったっけ、とか思うけれど、いずれにせよ、消費社会という言葉を聞かなくなって久しいけれど、ひとしく我々は無色の時間を消費する。そこに自分なりの色をつけて。

そうして、窓の外を見ると、夏の燦々たる日差しがコーヒーカップに降り注いでいて。つめたかったハズのスタバのラテも氷がとけて、机の上をぬらす。いろんなものが濡れて、そして、夏が終わるように、その濡れ始めは卓上のセイレーンのロゴから始まるのかもしれない。まるで、カオサンのパッカーが100バーツラーメンの看板から旅を始めるのと同じように。

そして夏の日差しを浴びて、過去の夏がいやが上にも思い出される。この初夏のムっとする暑さと、そしてギラっとした光に照らされれば、人の体は、細胞が持つ夏の思い出を呼び起こす。夏が持つ抽象的概念と具体的概念の狭間に、葛藤や後悔や若気の至りと同時に花火や浴衣や海や猛暑のディズニーランドが浮かんでは消えて消えては浮かぶ泡沫のごとく溶けゆく氷の上を闊歩する。

そこで気づいた。夏のこの記憶とは生得的に獲得した記憶なのだと。つまりはどんな青春も、自分が経験した記憶がもとになり、本来ならば無色のはずの夏に色をつけたのは私自身なのだと。考えれば当たり前なのだけれど、それでも30年弱をかけて、こっそり私の大脳に染みついた夏の記憶は、まるで、それが当初からあったもののごとく錯覚を引き起こしていた。もはや、その夏がいつの夏かを思い出せぬほどひまわりの水やりとプールの塩素の匂いは、夏というシニフィアンに密接に結びついてしまっていたのだった。

そこで、思う。フェアではない、と。つまりは上記のような青春や夏というのは、かってに私が作り上げた夏だったのだ。すなわちは、それは過去であり、過去の遺物でしかない、と。よって回顧することや思い出すことは、自分の過ぎ去ったものにをただ愛でるだけに過ぎず、そこにはきっと何の価値も付与されていないのだろう。そう考えると、過去にだけ頼るのは、現代にいきる人々にとってフェアじゃない。いくら英国が判例主義だからとはいえ、私の価値観を過去の判例に基づいたものによって決められるのはたくさんである。

でも、自分の最近の判断基準を思い返せばそうでないことに気づいた。こういうことだ。

人は何かしら悩む。あるいは心配する。またはへこむ。それは誰かの悪意ある一言だったり、あるいは失敗だったり、はたまた些細なことかもしれないけれど今の自分にとっては大切なことによって人は、感情を大きく揺れ動かして。夜も眠れなくなったり、胃が痛くなったり、あるいは、まるでこの世が終わるように思えたり。

でも、そんなことは現時点を基準にしているからそう思うのであって、立脚点をかえればまた違う風景がそこには浮かんでいて。つまり、つまりは未来にたてばいいだけのことで。これは処世術としてもよく知られているものだけれど、簡単に言えば、「未来の自分にとって、それが重要なことなのかどうか」という視点で物事を見るような。そんなこんなで、私は何かしら厄介なことが起こったときは、「それは50年後においても、悩ましいことなのか」という判断基準で判断するようにしていて。そうすれば、下らないことで悩んだりへこんだり、おじけることは少なくなるような気がしていて。もちろんうまくいかないときもあるのだけれど、少なくとも、未来を信じて今を決めるほうが、過去のすでにあった確定事項から未来を決めるよりもオプションは多いような気がしていて。もちろん、認知心理学的にはヒューリスティックス無視の効率悪いものなのかもしれないけれど、多分レイヤーが違うので大丈夫だろう。

ということで、夏を懐古するのはやめようと思った。とりあえず海に行きたいな、と思った。

2008年07月13日

ふと昔の写真を見かけて未来へお礼

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ふと友人のFlickrを発見して。そこに見ると、色々過去の写真があって。とはいえ、○年とかそれくらいの前のものなのだけど。ベタになんだかセンチメンタルな気分になって。それってば、そこに私は写っていないのだけど、私の友人やあるいは過去の恋人が写っていたりして、それは、何かしら自分が知らなかった過去で、それがふと今更現れてきて、おお、と思った。おお、という言葉に特に意味は込められていない単純な感嘆符なのだけれど、なんというか世界はやはり「パラレルワールド」だ、ということに気づく。そういえば東野けいごさんの「パラレルワールド」は名作。岡島二人の「クラインのツボ」と並ぶ名作。まぁ、どういうこtかというと、人々は自分の固有の時間軸を活きているわけで、当然、それは重なることもあらば、重ならないこともあり、そして、それは当たり前なんだけど、でも、自分の時間軸で活きていると意外とそのことに気づかないような気がする。別段、自意識過剰というわけではないと思うのだけど、なんというか、効率論的に、自分以外の人々に流れている時間に思いを馳せるのは、どう考えても時間効率が悪い。そもそも不可能である。肉親や同僚や友人の流れている時間を想像して何がハッピーかというような話であり、その結果、人は自分の時間軸に活きることになる。まぁ、「トゥルーマンショー」的な見方をすれば、自分以外の人たちの時間は「自分が登場していないシーンでは流れていない」と想像することも可能である。つまり、自分が主人公だと仮定して、自分がいないシーンはすべて舞台裏であって、みんなタバコとコーヒーで休憩中と想像するような。アハ。でも、シェイクなスピアさんは、それを喝破して「人生は舞台だ」といったわけだから、あながち離れているわけでもなかろうにマカロウニ。筒井先生は、「虚人たち」でそれを小説に仕立て上げたわけだけれども。「小説の主人公たちがおのおのの物語の主人公だと認識し、他の脇役はまた別の物語の主人公と設定されている」という難関な感じでございますが、まぁ、そういう世の中なんですと思うわけでございます。そして、思わずその人の名をググリそうになったけど、時間もないし、そもそもいろんな意味で危険などと思い、思いとどまって、で、とりあえずいきおいでブログを書く次第で、なんというか、そこには、過去の時間が現代にも活きるというような印象があり、なんだか最近そういうセンチメンタルというかメランコリックな記事が多くなっているけど、別段、他意はないのだな。なんというか、自分の知らない間にも、知らない時間は60億通り以上流れていて、それはそれで非常に興味深いとかは思う。昔思ったのは「いつしか将来、恋人とか親友になる人が、今はお互い知らない関係で過ごしているのだ」と高校生のころ思って、なんだかソワソワしたことがあった。でも、それってば、今も適応できるわけで、なんというか、将来出会う人とは今出会っていないわけで、そうしてきっと出会った時に「ああ、あの頃はあれしていた」というような会話になって、なんだか、時間を解きほぐすことになるわけで、じゃあ、それを先読みしておけばどうなるのかしら?と少し時間に反逆したくなる日曜の深夜(字余り)。でも、そのように時間というのは凄い。なんというか、なんでもなぎ倒す。極端に言えば、ベルリンの壁を倒したのは時間である、あるいは、ローマ帝国を崩壊させたのも時間である。今後、この時間はさらに多くの国や世界、あるいは環境を破壊し続ける。だからこそ、人は時間にあがらおうとするのかもしれない。たとえば昨今のアンチエイジングのトレンドやドラゴンボールでフリーザ様が願った不老不死なんかそうなのかもしれない。昔、永遠という時間がどうしても理解できなくてこまった。今も困っているのだけど、トマスマンに少し助けてもらえたのかもしれない。永遠というのは、死ぬまでではない、という概念ではない。永遠というものは、終わりがないという概念なのである。これを、「体感」として理解できる人はいるのだろうか。素敵な人は想像できるのかもしれない。僕は、それを想像すると、どうしても「ああ、永遠の時間がたてば死んでしまうなぁ」と、自分の生のドグマにとらわれて、それより先の思いが遮断されてしまう。死なない永遠の時間は、前の石の話でも書いたような気がするけれども、なんともロマンチックだ。何もきっとそこには残らない。時間と質量は等価で考えられるのだろうか?そうすると時間は膨大なエネルギーを持つことになるのだけど、どうなんだろうか。質量は高さと云々だったろうか。ノン。エネルギーと高さのエネルギー保存の法則だったか。そうすると、高さと時間に何かしらの関係がれば、三段論法的にエネルギーは時間を持つことになる。ふむ。高さは時間か。高く飛び立つには時間が必要だ。桜井さんも「助走は永いほうが高く飛べるって聞いた」と言っていたのを僕も聞いた。だから、きっと時間は高さであり、高さはエネルギーであり、すなわち若さだったていうことなんだと思う。ひらたくいえば。あるいは、いろんなものをけむにまくような言い方で言えば。未来を想像するのがすきな人がいた。10年後に思いを馳せていた。私は、そうだね、と相づちをうって、ダイエットコークでポテトを流し込んだ。そして、10年後の指先に思いを馳せて、なんだか、10年がんばった指をいとおしくなった。10年先の苦労を前借りして、今、先に愛でておけば、その分の利子は浮くわけであり、それがマーケットのアルファでありオメガであるから、だから、僕は未来に対していつもお礼を述べるんだ。

2008年07月17日

自分用メモ:MT4をMT3風に使う

先日「socialmedia.jp」のサーバーを移転。ただ問題が発生。MT3.3のタグが、書き出せないという大事件発生。

前提
・MT4が使いにくいのでMT3.3を使いたい

以下対策
・「Movable Type のブログ記事インポートフォーマット | Movable Type 4 ドキュメント」を参考にして、すべてのデータを書き出すテンプレートの作成。
・そのデータを移行先のMT3.3に入れるも、受け入れ側がタグを認識せずアウト
・データベースから入れ込むもアウト
・どうやらタグの読み込みはMT4じゃないと無理っぽいと勝手に判断
・MT4をMT3.3ライクにすることに注力
・MT4のテンプレートをMT3にする方法を検討
・インデックステンプレートの「メイン」、アーカイブテンプレートの「ブログ記事」、モジュール「検索結果」は、そのままMT3.3のを入れ込み。
・カテゴリーテンプレートがなくて悩む。どうやら「ブログ記事リスト」テンプレートがそれに該当するとのこと。
・アーカイブテンプレートの「ブログ記事リスト」にMT3.3の「カテゴリーアーカイブ」のテンプレートを入れ込み。ただし、「CategoryPrevious」だかなんだかのタグが使えないので削除。
・再構築すると、MT3.3のテンプレをそのまま使ったMT4ベースのサイトが完成
・ただしMT4の画像アップロードが非効率すぎる
・そこでアドオンを探す。
・いまいち良いアドオンがなかったので、「Better File Uploader | Plugins | Eat Drink Sleep Movable Type」を利用。
・これは画像アップロードをサポートするアドオン。一度に複数の画像をアップできる。有料。
・完成←いまここ

※記憶をベースに書いているので間違いあるかもしれません

2008年07月22日

夜間飛行と最上階からの夜景にみる人の営み

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25時の電話のベル 土曜日の仕事

という歌が過去にあった。

その歌詞のごとくのベル。そう、それは連休の始まりの土曜日。私はいつもと変わらずオフィスにいて。目力が強いメキシコ人の交渉と仕様書の作成とFacebookで出会ったパリ郊外に住む建築学を学びたい妙齢のマドモアゼルによる日本人労働観の批難と反論を同時並行している土曜日の夜。エアコンの風が、観葉植物をさらさらと撫でて、外では男女がタクシー前で熱烈交渉を繰り広げられているような土曜日の夜。異国では別の戦線が拡大しているような土曜日の夜。iTunesがなければあまりにも静かなオフィスで、文字のごとくキーボードの音だけがこだまするような平和な土曜日の夜。時間はちょうど24時ごろだったろうか。

突然、オフィスの扉がたたかれる。思わず他意もなく「Alt+Tab」で見ていたブラウザを切り替えてしまうような驚き。会社の人だろうか、と思い扉を開けると、真夜中の闖入者。

ごめん。携帯電源切れて連絡できなかった。

OH、と思い眺めるは見知ったる顔。会社の方の友人。かつ最近、仕事で色々お世話になっている方だった。とりあえず着席を勧め、お茶をすすめ。突然の来客ではあれど、週末の真夜中の訪問はなんともなく嬉しくもあり、切なくもあり。突然、というものは、日常に新しいスパイスを与えるものとして重宝すべき概念である。

その流れで西川氏も合流し、その彼女の自宅に向かうことに(彼女のフライトの関係で自宅待機が必要だったそうで)。彼女が恋人と住む家はミッドタウンを見下ろすマンションの最上階。一度いってみたいと思っていたので良い機会で。国立新美術館の周りは六本木とはいえ静かで尊い。そして、その最上階はもっと尊い。

全面に広がる港区の夜景にしばし度肝を抜かれ、そして一人感嘆する。ヒルズの屋上からとはまた違った夜景。一面に広がる連休合間の夜。様々な喧噪と期待が混じる深夜26時の六本木と麻布を眺めながら、ふぅっとため息をつく。今まで「高層ビル」に興味をもったことはほとんどなかった。

上に上がるのに時間がかかるし、地震や火災の面でもリスクが大きすぎる。でも、その景色はその考えを改めさせるような世界だった。それは、単純に一つの解を提示したからだ。「ここで仕事をすると気持ちよさそう」というような。ヒルズの屋上やあるいはエンパイアステートビルの屋上では仕事はできない。しかし、いち邸宅の夜景は、いわばデスクトップの背景であり、仕事場のスクリーンなのだ。そのため、感慨は大きい。しかし「綺麗さ」にやられたのではない。「町の営みを眺めることができる」という魅力にとらわれたのだ。誰しも経験があるかと思うが、夜中まで作業をしていると、しばしば静寂と孤独にさいなまれることになる。たとえそれがごくまれかしばしばかの程度の差こそはあれ。

その時にサポートするのが、時にはメッセンジャーであり、携帯のメールであり、あるいは、夜を知らないインターネットサービスであったりする。テレビとインターネットの違いは、インターネットは砂嵐がないからだ(ケーブルとかのツッコミはなしで)。そして、あるいは、他の人が生きている、動いているということの体感こそが時によりどころとなり、長い夜明けまでの道のりを滑走させる潤滑油となる。

私がその部屋から見たのはそんな「人の営み」だった。深夜にも関わらず煌々とと光るネオンと車のテールランプ。その中でうごめく男女の生活。あるいは苦節か享楽。そんな生々しい人々を眺めるこの場所は、きっと深夜の仕事に向いているだろう、と。

ソファーに転がっていた村上春樹の本を読みながら、結婚式でもらったという甘い紅茶を飲みながら、ただ土曜日の26時は静かに過ぎていって。ろうそくの光だけが部屋を照らし、さながら空中庭園の中で、私は、ピンボールを思った。

あるいは、夜間飛行を思った。パイロットが人を引きつけるのは、人の営みを眺めることができる存在だからかもしれない、と。

2008年07月28日

恋人の携帯電話

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先日、このようなニュースを見た。

「ときどきしている」人が34%、

約4割が「彼氏のケータイをチェック」、7割が「見たことを後悔していない」 - ITmedia +D モバイル

なにを「ときどきしている」のかというと、恋人の携帯電話をチェックすること。うーむ、とうなってしまった。

この数値を、「そんなもんかな」と見る人と「ほんまかいな」と見る人の2通りがいるような気がするが、諸兄はいかがでしょうか。サンプルはOzモールの利用者だからネットをある程度利用する学生よりも上の女性だろうか(印象)。そうするとサンプルデータとしては、悪くないような気がする。

この「3人に1人は恋人の携帯電話を見ている」というデータには、個人的には「really?」という戦慄を覚えたのですが、でも世の中はえてしてそのようなものかもしれない。ただ、この戦慄の意味は、「怖い」というよりも、そんなにも疑心暗鬼の間柄でよくやるなぁ、というような印象の方が強い。相手を疑い前提で動くと色々うまくいくものもうまくいかなかろうに。

いずれにせよ、個人的な経験では「見られた」と自分が気づいたことはないので、まぁ自分の中では平和に生きている(見られていても気づいていない)。ただ、個人的にこういう世界は興味あるので、よくヒアリングするのだけど、たしかに3割くらいの人は「見る」「見たことがある」という意見をしているので、この数字もそんなものかもしれない。

また、「見る」の頻度や程度、あるいはトリガー(疑心暗鬼となるきっかけ)によって「見る」の定義も変わるので、いちがいには言えないのかもしれない。

携帯の話で、知り合いの人は、奥さんに携帯電話を見られそうになってたたき割ったというアグレッシブな話は聞いたことがあるが、それほど携帯電話というのは個人情報の詰まったものなのだろうか。ならば、そんなの持ち歩かなければいいのに、とも思うのだけれど、それだと携帯の意味がないからやむを得ないのかもしれない。

で、逆に自分が恋人の携帯を見たいか(あるいは見たことがあるか)と考えた場合、みたことは一度も記憶にないし、みたいとも思わないのだけれど、それはなぜだろうか、と自分で考えた。ああ、もしそれがパンドラの箱ならば開けない方が世界がハッピーだから、というシンプルな理由だった。地雷がうまっている可能性がある戦場をすきで歩くやつの気が知れない。

ただ、自分はさておき「友人」の携帯を見たいか?という仮説を考えてみた。そうすると、確かに、見てみると面白そうな人はいそうだ。個人的には、外資系金融、コンサル、マスコミ、ベンチャー周りの知り合い・友人の携帯はとても興味がある。主観だが、彼ら(男性)は平均値をとるとかなり色々な意味でフリーダムな人種であり、そのフリーダム具合(そしてカオス具合とヒッピー具合)は携帯電話に集約されているように思う(注釈しておくと、一般のそれらの人はまともだけど、一部の人がフリーダム度を著しく押し上げているように見受けられる)。まさに自由の翼が携帯電話であるようだ。送信メールのテンプレが完備され、暗号のようなアドレス帳の名前があり、相手によってサイレント設定が完備され、なんというか、まめ。現代はまめな人だけが世の中の翼を持つのかもしれない。

そういえば、何かのゲームで「一番最近の受信(ないし送信)メールを公表する」という罰ゲームを聞いたことがあるが、そういう遊技は、現代の個々人のプライベートを赤裸々に公開する慰みとして一興があるような気もする。いわば土佐日記の現代版である(違。

というかこんなことを書いていて、実際に他人(友人)の携帯メールの内容に興味を持ってきた。携帯メールだと人は人格が変わることが多々あるが、どうだろうか。メールでは優しい人でも会うとそっけないツンデレ系や逆に、会うとジェントルなのにメールではクールみたいなこともあれば、あるいは普段はスラングをしゃべってるのにメールは慇懃無礼とか。そう考えると、携帯メールはその人の別人格を表すような気がしないでもない。PCメールでもいいのだけど、オフィシャリティが高いのでつまらない気がする。なんか、そのような携帯メールアーカイバを共有するサービスとか何かできないかしら。アーカイブは眠っているとただの容量を食うゴミだけど活用すれば何か面白いものになるような気がしないでもない。
昔メッセのログを共有するサービスを考えたことがあったのだけど、いろんな意味でややこしいことになりそうなのでやめた。

しかし、改めて思うのは、携帯電話にはそのような個人情報が集約されているのに平気で人はそこらに持ち出すし、あるいはなくす。なんとも怖い。たとえば、自分が誰かに送ったメールでも、それらが紛失されると自分の個人情報も余裕で情報大航海へ繰り出し、大後悔時代の幕開けとなってしまい、もうてんやわんやの大騒ぎとなるのではないか。そう考えると、携帯電話を落とした時のリスクヘッジやあるいはモバイルリスクマネージメントというような業界はまだまだ可能性があるような気が少しした。

あるいは、ふと思い出したのだが、近しい人とかだと「こんなメールきた!」と教えてくれることがあるが(多分、誰しもあると思う)、そのようにプライベートだと思っているメールは、しらぬ間に、床の間に飾られ、酒のつまみとなることもあり、なんというか鳥獣戯画。

それは携帯メールが友人に見せることができるアフォーダンスと形態を持っているからであり、その点で、PCメールは様々な制約があるために見られにくい。その点においても、携帯メールはいろんな意味で世の中をおもしろおかしく(悪い意味も含む)するためのスパイスなのかもしれない。だから、私は携帯メールが嫌いなんだ、プンスカ

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