青春と夏と逍遙

注:またも駄文になってしまった。ライトに書こうと思ったのだけれど、どうしても厄介な文章になる。癖だろうか。ごめんなさい。ご容赦くだしあ
先日、所用で大学に行った。まぶしかった。この眩しいというのは日光が眩しいのではなく、何かしら慣用句としての「眩しい」印象を受けた。もちろん初夏であるゆえに梅雨の合間のまぶしさは十分まばゆかったのだけれど、それ以上に、学生が持つエーテルというような目に見えない物質が発散するまぶしさ。いわば、怠惰に流れる時間をもてあます自由とそして何かを探しているのに探しているものが見つからないというようなもどかしさが混ざったようなまぶしさ。#ffcc99というかなんというか。
でも、ふと、何かしらそのような「青春なるもの」のイデアを回顧している自分をメタ認識し、それに嫌気がさしとりあえず自動販売機でコーヒーを飲んだ。いつもはカフェオレだったのだけれど、その時ばかりはブラックで心なしか社会人となった我が身を衒い、そしてシャツをパンツに入れ直した。チャックはしまっていなかったかもしれないけれど、記憶にはない。そんな1日があって。
そんな折、はてなブックマークで「青春写真(R18)」の記事があがっていて、それを読むに、まさに青春のもどかしさや性欲へのひたむきな視線を真に受けてしまって、なんというか、ホトホトした。「返らぬ青春とは悲しいものだが、去らぬ青春はなおさら悲しい」というような誰かの名言を思い出して、青春が持つ何かしらのドグマをふと考えた。青春とは過ぎ去るべき対象であって振り返る対象ではないのではないか、というような。人生にはそれぞれのフェーズがあって、そのしかるべき時にしかるべき時間を「消費」することを義務づけられていて。たとえば幼少期の悩みであったり、部活の暑さだったり、受験の眠気であったり、黒板消しの匂いであったり、そして青春のまぶしさであったりとするようなものは、消費の対象と存在するような気がした。ボードリヤールさんはそれをなんと言ったっけ、とか思うけれど、いずれにせよ、消費社会という言葉を聞かなくなって久しいけれど、ひとしく我々は無色の時間を消費する。そこに自分なりの色をつけて。
そうして、窓の外を見ると、夏の燦々たる日差しがコーヒーカップに降り注いでいて。つめたかったハズのスタバのラテも氷がとけて、机の上をぬらす。いろんなものが濡れて、そして、夏が終わるように、その濡れ始めは卓上のセイレーンのロゴから始まるのかもしれない。まるで、カオサンのパッカーが100バーツラーメンの看板から旅を始めるのと同じように。
そして夏の日差しを浴びて、過去の夏がいやが上にも思い出される。この初夏のムっとする暑さと、そしてギラっとした光に照らされれば、人の体は、細胞が持つ夏の思い出を呼び起こす。夏が持つ抽象的概念と具体的概念の狭間に、葛藤や後悔や若気の至りと同時に花火や浴衣や海や猛暑のディズニーランドが浮かんでは消えて消えては浮かぶ泡沫のごとく溶けゆく氷の上を闊歩する。
そこで気づいた。夏のこの記憶とは生得的に獲得した記憶なのだと。つまりはどんな青春も、自分が経験した記憶がもとになり、本来ならば無色のはずの夏に色をつけたのは私自身なのだと。考えれば当たり前なのだけれど、それでも30年弱をかけて、こっそり私の大脳に染みついた夏の記憶は、まるで、それが当初からあったもののごとく錯覚を引き起こしていた。もはや、その夏がいつの夏かを思い出せぬほどひまわりの水やりとプールの塩素の匂いは、夏というシニフィアンに密接に結びついてしまっていたのだった。
そこで、思う。フェアではない、と。つまりは上記のような青春や夏というのは、かってに私が作り上げた夏だったのだ。すなわちは、それは過去であり、過去の遺物でしかない、と。よって回顧することや思い出すことは、自分の過ぎ去ったものにをただ愛でるだけに過ぎず、そこにはきっと何の価値も付与されていないのだろう。そう考えると、過去にだけ頼るのは、現代にいきる人々にとってフェアじゃない。いくら英国が判例主義だからとはいえ、私の価値観を過去の判例に基づいたものによって決められるのはたくさんである。
でも、自分の最近の判断基準を思い返せばそうでないことに気づいた。こういうことだ。
人は何かしら悩む。あるいは心配する。またはへこむ。それは誰かの悪意ある一言だったり、あるいは失敗だったり、はたまた些細なことかもしれないけれど今の自分にとっては大切なことによって人は、感情を大きく揺れ動かして。夜も眠れなくなったり、胃が痛くなったり、あるいは、まるでこの世が終わるように思えたり。
でも、そんなことは現時点を基準にしているからそう思うのであって、立脚点をかえればまた違う風景がそこには浮かんでいて。つまり、つまりは未来にたてばいいだけのことで。これは処世術としてもよく知られているものだけれど、簡単に言えば、「未来の自分にとって、それが重要なことなのかどうか」という視点で物事を見るような。そんなこんなで、私は何かしら厄介なことが起こったときは、「それは50年後においても、悩ましいことなのか」という判断基準で判断するようにしていて。そうすれば、下らないことで悩んだりへこんだり、おじけることは少なくなるような気がしていて。もちろんうまくいかないときもあるのだけれど、少なくとも、未来を信じて今を決めるほうが、過去のすでにあった確定事項から未来を決めるよりもオプションは多いような気がしていて。もちろん、認知心理学的にはヒューリスティックス無視の効率悪いものなのかもしれないけれど、多分レイヤーが違うので大丈夫だろう。
ということで、夏を懐古するのはやめようと思った。とりあえず海に行きたいな、と思った。





