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2008年06月 アーカイブ

2008年06月01日

ある1日の紙芝居

手書きが気になる昨今。なんとなく作成。

↑ その「右」「左」のヤジルシボタンでページ送りができます。

中身は、やっつけのゴミでごめんなさい。

2008年06月10日

言葉とかシャングリラとか時代とかシンデレラとか

lalala.jpg

ブログで。「最近のは堅すぎる」という声を3人ほど頂いたので、緩くしようとか思ってはいるわけですが。で、個人的にも緩いのは書いていて楽しいのではありますが、まぁでも、あまりにもあばれはっちゃくだと色々ややこしくなるので、その辺が悩ましいところではございます。さてはて。

最近、改めて、言葉の力を感じることが多々ありまして。

たとえていうならば、リバーフェニックスの「その人が幸せになるかどうかは、身近な人の一言で決まったりする」というような(うろ覚え)。

つまり、何かしら失敗してへこんでいる時やバイオリズム的にダウナーな時でも、身近な人のさりげない一言や暖かい言葉で、心情は変わったりして。何かしら、誰しもそのような経験はあるのではないかしら。

その身近な人というのは、家族かもしれないし、恋人のことかもしれない。あるいは友人のことだってあるだろうし、同僚のこともあるかもしれない。そして、相手は意図せぬ言葉なのかもしれないし、あるいは熟慮を重ねた上での言葉かもしれない。いずれの場合でも、何か自分の心に触れる言葉1つで、相手の気分は大きく変わる(そうでない人もいるかもしれないけれど。あと、程度の問題もあるけれど。肉親が他界した時に言葉が持つ効用はかなり限定的だろう)。

そう考えると、人間というのは、とても単純なものだとも思う。もちろん逆を言えば、どれだけハッピーな気分の時でも、ちょっとした誰かの悪意のある言葉でへこんだりするという逆のことも起こりうるのだけれど。それはブログのコメントだったり、あるいは上司の嫌みだったり、はたまた悪意がないけれど自分にはつらい一言だったり。

ただ、このような心境は言葉というパラメーターで大きく変わる可変性を持っているわけで、そう考えると、下方硬直性さえもてれば、つまりネガティブな言葉に対する耐性さえもてれば、おおむね人生はハッピーにすごせることになる。つまり、避けたい言葉はすぐに聞き流して、良い言葉だけ暖めてしまっておけば。

そう簡単にはいかないけれど、まぁ、ポジティブシンカーな方は、そのような傾向にあるように思う。「いやなことはすぐわすれちゃうんです」というような。

そして、時には、それは言葉ではないかもしれない。手書きのポストカードだったり、携帯メールの絵文字だったり、はたまたハイチュウの差し入れなのかもしれない。それは、時の場合によってトリガーとなるものは違うけれど、変わらないのは「他者」というものの存在である。つまり、他の人の何かしらによって、我々は心境を大きく変化させる。まさに社会的動物たるゆえんであろう(原意は違うけれど)。

しまった。なんか緩いことを書こうとしたら、またなんか綺麗に落としそうになった。イカンイカン。

そう。百式御大が、著作を出されたそうで。それが以下。なんとダイエット本です。

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これの凄い点は、想像しなかった方法を活用するという点かと、わたくしめは感じました。あと、百式さんもおっしゃってますが「シャングリラ」という名前が電気を彷彿させる感じでサイケでインパクトで、ナウでヤングかと思われます。

実際、周りでも油を飲み始める人が続出とか、続出でないとか。とりあえず、


さて、話は変わって、昨日、たまたま、動画を見る機会があって。シンデレラエクスプレスの動画を見た。ぐっときた。カムバックバブルという思いで胸がいっぱいです。この胸のいっぱいさで食事ものどを通らないダイエットというのはどうでしょうか。

ということで、シンデレラエクスプレス。

さらに有名なクリスマスエクスプレス。2本目の牧瀬さんのが有名か。

そして、ゆーみんで思い出したけど、SuicaのCMもいいですよね。歌がいいのか。

そして、歌で思い出した。

メッセで女性から話しかけられた。そこで、ちょうど私が聞いていた中島みゆきの「糸」という歌の話になった(メッセンジャーでは聞いている曲が表示される)。

で、その方はもうすぐ結婚するそうで、その文脈と中島みゆきの歌が組み合わさってこんな話となった。

縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない

↑この歌詞が意味しているのは、「男女は1人と1人づつで1組なのが良い」という論旨という説を賜った。つまり一夫多妻や浮気は、「糸がこんがらがるのだよ」と。

ほうほう、そんな意味があるものか、とふと思う。ただ、この歌を皮肉な目でとらえるならば、「相手は縦、私は横」なわけで、お互いは同じキャラだったら大変だという見方もできる。方向性は同じ(布を作る)ということだとしても、動いているのは縦と横の異なった動きで。まぁ、平行線で永遠に交わらないのも良いのかもしれない。そういう意味では、男女とは「違う生き物だ」と言われるのはそういうところに意味があるのかもしれない(関係ない)。

そんでさらに歌で思い出したのだが、サザンが活動休止するということで、サザンネタなのですが、個人的にすきな歌詞がこれで。

» 君こそスターだ サザンオールスターズ 歌詞情報 - goo 音楽

行くあてのないほどにつれぬ世の中だけど
頑張る君と生きた時代に万歳

何が良いかというと「同じ時代を生きている」ということだけでも乾杯にあたいする、と。世の中は戦争や物騒な話題もあり、少子化だのサブプライムだのソックス法だのタスポだのと世知辛いけど、でも、なんだかんだいって同じ時代にいきている。

広い話でいえば、過去のフレーズを使えば「地球号」という船に乗っている同志であり、呉越同舟というかなんというか。つまり、一緒の時代を生きることのすばらしさよ、というか。

そういえば、恋人と別れた時にも、誰かが口ずさむのは「それでもあなたが生きていることを喜ぶ」というような。つまり、たとい2人は同じ歩みではなくなるかもしれないけれど、それでも同じ時代に生きていけることができる。それは、やっぱり、とても尊いことのような気がして。

もちろん、ロジカルに思えば、このロジックは何も意味を持たないのだけど(つまり、誰しも生きているものはその時代において会えた人と同じ時代にいきることを喜ぶことができる)、でも、そのロジック以上の重みが言葉には、あるいは、感情というものにはある。

つれづれなる日記でしたね。失礼

2008年06月16日

好きなCMコピー

SONY

どこまで行ったら、未来だろう

サントリー

肩書きで勝負しない男と、色気で勝負しない女がいいね。

SEIKO

さようなら、たった1秒のその言葉が、永遠の別れになることもある

ドコモ

子供の頃夢みた未来がやってきた

TOYOTA

MORE THAN BEST

JR

大人はとっても長いから

西武デパート

いてもいいし、いてほしいと思う。

JR東日本

愛に雪、恋を白

JTB

タビナシ人生は、シナビタ人生だ

ガテン

仕事を聞かれて、会社名で答えるような奴には、負けない

※どこかしらから拾い集めていた情報をアサリ直して張ったので、間違い合ったらごめんなさい。

2008年06月24日

こうして僕らは大人になっていくんだね

trimes.jpg

「こうして僕らは大人になっていくんだね」

と、あなたは言う。場末のバーの薄暗いカウンターの奥で。紫煙をくるらせ、いささかナイーブに。あるいは、too muchナイーブに。

「あなたも早く大人になりなさい」

と言葉は続く。「あなたは月に返りなさい」という台詞を彷彿するがのごとく、たどり着かない言葉を淡々と。そしていささか無防備に。

大人という言葉を使わなくなって久しい。知らない間に私たちは大人の領域に足を突っ込んでいて。それはきっと人間が避けて通れない通過儀礼で。つまり「知らない間に年をとっていて、ある時、愕然とそれに気づく」というような通過儀礼。それは、まさに通過儀礼を得ない通過儀礼といってもいいのかもしれない。言葉遊びをするならば。

昔は「大人になるまでは、こうしよう、あれしよう」とつぶやき続けた幼きころの夕暮れは老けて。ただ根拠なき自信と、飽くなき未来への渇望が、ただ彼らの全身には込められていて。しかし、いつしか社会という名の不純物にさいなまれ、自我はすり減って、その抵抗にスーツもくたびれゆく。

「わたし、なにが好きなのだろう・・・」

と、疑問にならぬ疑問をつぶやく。就職活動生と会うことも少なからぬ日々に、たまに耳にする答えを持たぬ疑問。「問いをたてれた時点で問題は解決している」と言ったのは、かの大江健三郎だが、答えがでない問いは、それは問いではない。まるで、女性の「仕事と私、どっちが重力重い?」的な手垢にまみれたメタファーで表されるような一説。つまり、その女性は、「仕事or私」の答えを欲していない。そうではなく、彼女の心境を読み取ることを強いる言説。時に、「問い」というものは、見せかけだけのものに過ぎず、問いとは限らぬのだ。

そう。人生に悩めるということは、人生を謳歌しているということなのだ。路頭に迷った者に、あるいは、日々のキャッシュフローに悩む者に人生に悩む余暇もないだろう。

でも、私幸せだよ

と、壁の方を向きながら貴女は言う。テーブルの上の食べ残されたサラダをつつきながら。「でも」の接続詞が、何を意味するのかわからず、その言外の意味に思いをはせる。「幸せなの」とリフレインされるその言葉は、ただその言葉の置き所を失い、紐の切れた風船のように、どこかの神社の木にまとわりついて。いつしか、その風船は地に落ちるのだろうか。あるいは、木が倒れるまでその場に止まり続けるのだろうか。

あなたも幸せになりなよ

と誰かが言って。携帯電話から聞こえる無責任さとそして何かしらの余韻にあふれたその言葉は、うつろに深夜のベランダに投げかけられて。回答することさえ拒否するその無機質な言葉には、人が聞こえる音階、いわば超音波のような違和感を脳内に残す。「ああ、そうだね」と、定型文で返す言葉の先には、まるで定石を尊ぶ個人の棋士のような安定性と、同時に寂しさが待っている。ああ、そうだね。いつしか、人は誰しも、自分にとって自分を慰めるために自分は幸せになる。誰しも不幸になることは望んではいないだろう。不幸に心が濡れる人はいたとしても。

大丈夫だよ

と、いつしか言葉は代わり。まるで梅雨の1日だ。朝焼けはいつしか豪雨に変わる。個人が歌ったいにしえの歌にそんなフレーズがあったな、と脳内にクエリをかけるけれど、少し酩酊した身は検索結果を返さない。それよりも、もっと何かしら言いしれようもない金属音を返すだけ。「ガガ、ピー。カイトウケッカはアリマセン」。そう、回答を出さなければ決断もする必要がないんだ、と誰かが言っていた。あるいは言っていないかもしれないけれど、どっちだって良いことだ。そんなことで社会は何も変わらない。

そう、いつまでも子供だったと思っていた時は過ぎ。まさに、夢見る少女じゃいられない時代の幕開けとなり。人はそれを、自己を確立とオブラートに包むのかもしれないけれど、いわば成熟への階段は同時に、回答を出さない人々の後悔量を増やすだけ。あなたが言うように、結婚なんて100年先の話だと思っているのに、周りは身を固め、そしていつしか新しい社会を生み出していく。そして、いつしかジャンプするタイミングを忘れ、踏切位置を超えたまま、バイオレーションの笛だけは響かず私の足跡だけがグラウンドに木霊する。

ねぇ、どうして誰も締め切りを教えてくれなかったのかな

人生にタイムキーパーはいないなんて、ついぞ最近まで知らなかった。そもそもあなたはタイムマネージメントだって、人生には必要だったことを気づいていたのかも怪しいだろう。ねえ、でもあなたは自由だ。人生に締め切りを教えてくれる先生はいないけれど、ルールを作る管理人もいない。あなたは自由なんだ。そう、僕らは飛べる。あなたがそれを望みさえすれば。

※この物語はフィクションです。

2008年06月29日

昔むかしあるところの下らない戯れ言

お世話になった方が友人の結婚式にいかなあかんそうで、ちょっと調べ物の手伝いをする必要に迫られた。

で、色々調べていたら、斉藤和義さんの「ウエディング・ソング」が刺さった。ということで貼る。

rightsが気になるので、iTunesで買うと良いかと思われます(以下リンクでiTunesが立ち上がっちゃいます)

http://phobos.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewAlbum?i=209340620&id=209340587&s=143462

結婚の話題はブログではいろんな意味で地雷とされているので、いろんな意味で避けたいのだけどKYな感じで。最近やたらめったら結婚の話が周りで飛び交い、まぁJuneという時期はまことにかしましい。

まぁ、ともあれ話を全力で変えて、ある物語のお話でもしよう。

昔むかし、あるところにある女性が住んでいた。少女でもいいし、処女でもいいし、バーサーカーでもいいし、アマゾネスでもなんだっていいけど、有機物であることは間違いない。

その人は、恋人という概念を否定していた。これは概念的な意味でも、物資的な意味でも両方の意味で否定していた。いや、否定は肯定の前の存在しうる概念で、そう考えると、「肯定も否定もせず認めなかった」というような説明の方が正しいのかもしれない。つまり、イタチはクラゲの生態系のエコ効果を否定も肯定もしないように、恋愛という物語を認めなかった。いや、実際のところ、どうだってよかったのかもしれない。

恋愛というような概念は認めていたかもしれないし、あるいはその概念に足を突っ込むことだってあったかもしれない。しかし、恋人という概念は、様々な意味で信用していなかった。恋人というのは、ある種の契約関係である。ここで言う契約関係というのは、「双方向の承認」が必要ということだ。つまり、一方向での恋人は、恋人とは言えない。相手にとって自分が彼氏ないし彼女であり、同時に相手は自分の彼氏・ないし彼女ということが前提となる。なんたる不思議な関係。

親子関係も双方向だけど、これは契約関係を意味しない。これは生得的、あるいは法律的に(ひらたくいって社会的)必要な関係性であり、これがなければ市役所が困るので、存在している。これは一方向的な関係もなりたち、「私のパパ」が常に、娘を意味しないということは存在しうる。ただし、これは21世紀日本において独自に発達した資本主義の新しい概念であり、ある種の奴隷契約に近いものになるのかもしれない。ここの奴隷契約というのは、奴隷というキツイ語を主眼とするものではなく、そこに存在する金銭的交換を取り出したゆえの代名詞である。話がおもいきりそれた。さらにそれたままドリフト走行をするならば、友人関係というのも興味深い。これも一方向の関係性がありうる。つまりAはBのことを友達だと思っているけれど、BはAを友達とは思っていないというような、思わず号泣してエリエールが摩耗するほどの哀愁を世界に提供する現代の悲劇。いわば、シェークスピアが現代にいきていたらならば、そのような友人関係のエクリチュールを人生劇場へと提供するだろう。しかも、不思議なことに友人関係は、契約を前提としない。つまり「私はあなたの友達ね」ということで始まる関係性ではないということだ(もっとも例外はある)。このあたりには人間のファジーなカテゴライズ機能が絶妙に働き、その「友人の区分」を自動で判別している。そして、この結果が現れるのが、年賀状のやりとりや電話番号新調時の連絡、ないし結婚式の連絡の時にその判断力が試されるようになる。グンパツな空気読め力を試されるタフな機会であり、これは現代における厄介なコミュニケーショ社会を生きる我々がさけて通れない通過儀礼といっても良かろう。しかし、このような物理的情報交換による確認をしなくても友人という認識が存在すれば、それは友人関係ということもあるのが、この例外を含有する友人関係の難しさであり機微である。

さて、それを踏まえ恋人関係も考えると、似たことが起こっているのがわかる。基本的には「あなた恋人、私こいびと」的な契約、つまりは平易な言葉でいう「告白」であったりするわけだが、そのようなものから、2人の関係は始まるとされている。しかし、このポストバブル世代においては、そのような明確な契約は、「時に妥当ではない」という社会通念により、いささかファジーにされている。そのため、たまに起こる悲劇ないし喜劇も後を絶たない。具体的にいえば「私、彼の恋人だと思っていたのに、ただのセフレにされていた」とか「彼女にクリスマスをどうするか聞いたら、は?って言われた。死にたい」みたいなような、いわばドフトエフスキー大師が罪と罰で看破した現代のアウラがそこに見ることができる。時には「言葉」がそれを意味し、「肉体関係」がそれを意味し、あるいは「物」がそれの関係性を担保するという点では、非常に曖昧模糊として、そしてビビッドかつ流動的な関係性が恋人関係の始まりといえる。

しかし、それはある程度不可逆性を持つのも事実である。つまり、一度恋人関係が始まれば、「なぁなぁ」で終わることはあまり少ない。たいてい、どちらかの発言によって、あるいは、どちらかの怒り・過失・批難・他界・渡米などによって唐突に終了することとなる。はじまりは「曖昧」でも終わりは「曖昧ではない」という点で、これを私は「土曜日のランチの時間」メソッドと命名する。つまり、土曜日の朝の始まりは曖昧だが、終わるのは、ブランチを食べた時点という点で明確だからである。

そう考えると、くだんの女性が恋人関係を認めないのも無理からぬことである。つまり、このようなわけのわからない関係性を具現化するには、そこにある相応の努力と恒常的な非日常的関係性を求められるからであって、その時にフラクタルな日々は、それが「同じであること」によって、その関係性を担保するという非常に逆説的な関係を求められることになる。よって、そのようなことに力を注ぎたくないならば、そのような関係性を認めないほうが正しい。

さらに不思議なのは、この関係性が排他的という点であろう。一般的に恋人関係は、複数にわたって同時並行で進まない。これは現象論ではなく、倫理的観点からの示唆である。つまり、恋人というものが家族の前段階を示唆するものならば、その恋人関係は定常的な関係性を求める。それにより子孫の育成や安定した環境を生むこととなる。もっともこれは現代において成立した法的なルールであって、自然界においては、それは別の話となる。ゆえに、倫理的観点からの話ということとなる。そう考えると、これは自分でしらない間に関係性を強要されることとなり、それを望まぬものは、確かに、この概念は前提から認めないほうが話は早いのかもしれない。

まぁ、いずれにせよ、そんな女性が昔いました、とさ。

※たぶんフィクションですy。

2008年06月30日

ある日曜日

起きてとりあえずカレーパンを食べる。一口かじったところで、コーヒーがないことに気づき、コーヒーを入れにいく。コーヒーメーカーにフィルターをセットして、NISSINで買ったコーヒーの粉をセットする。BRITAの水を注ぎ、ふらふらと机に戻る。PCのディスプレイをオンにして、RSSリーダーが見えるのを眺める。いくつかの友人のブログを見ながら、ああ、iPhone予約しなくちゃ、と思いながら、眠いので後回しにする。ブログを10個ほど眺めているとコーヒーができた模様でコーヒーをとりに行く。NYのスタバで買った馬鹿でかいマグカップの2/3にコーヒーを注ぐ。そして、低脂肪の牛乳を冷蔵庫から出し、コーヒーに注ぐ。飲みながら歩いて机に戻る。外を眺めると、雨がやんでいるようだ。梅雨の季節は嫌い。なぜなら、雨で不機嫌になった人が街を埋め尽くすからだ。そして、ネットに戻り、ブログを読み続ける。世の中はニュースであふれている。そんなにもニュースがあふれていると、相対的にニュースの価値はそこ減りするんじゃないかと思いながら。仕事する。合間にメールをチェックする。仕事のメールやプライベートのメール、スパムメールが届いている。メールサーバーの移転は問題なかったようで何よりである。そして、メール返して、サイトを更新する。ソーシャルメディア関連ニュースの更新をしていなかったのでたまっていたのを片端からやっつける。4時間ほど過ぎる。昼ご飯の時間を過ごしてしまった。作業。そして、携帯にメールが来ていることに気づき、メールの返信をする。必要な原稿を思い出し、執筆。そして、合間にブログチェック。日曜日は電話や仕事のメールが少ないからすばらしい。街も心なしか穏やかだ。雨が再度降り出し、なんだかメランコリック。しょうがないので、iTunesで音楽を購入しテンションを上げる。そして、メッセでMLのトラブルを教えてもらい対処。および、机の片付けに着手する。いわゆるエントロピー増大にあがらうことしばし。CheckPadに戻り、更新チェックおよび作業を確認し、作業に戻る。知らない間に夜なので、雨の中コンビニに出かける。コンビニで何かしらお弁当を買いオフィスに戻る。暑くなってきたので冷房を入れる。バーターとして、電気を消す。そして、しばし瞑想。それから、気づけば、3日間ほどシャワーを浴びてなかったことを思い出し、自宅に戻る。傘を忘れ、雨に濡れる。雨に濡れながら酸性雨に思いを馳せる。最近、酸性雨という名前を聞かないな。エコやフェアトレード、ロハス、ワークバランスの言葉はよく聞くのに。ASPとSaaSの関係みたいなもんかな、と思う。CGMとWeb2.0とソーシャルメディアの関係でもいいのだけれど。デスクトップを週一の定例で片付け。そして、ブログを更新しなくちゃと思って、とりあえず、昨夜見つけたYouTubeの動画を貼る。さて、それだけだといささか気まずいので、なんかを書こうとする。CheckPadに入れているぶろぐネタリストを開く前に、どうでも良い話を思い出したので記す。一気に記すと色々評判が悪いのだけどしょうがない。そして、気づけば0時を回る。いくつかのチャットで21世紀的コミュニケーションをしながら、日曜日の夜に思いを馳せる。小学校のころはジャンプの前日であり、あるいはサザエさんシンドロームな時間だった、なんてことを実は思い返さないのだけど、思い返している風なシーンは想起する。そして、サイトをごにょごにょいじって、ごみょごみょする。色々作業に関して思いを馳せ続ける。iTunesで今日の収穫はラジオスターの悲劇である。フォルダを変えた時になくした曲だ。そして、なんだか十二指腸の不快感を抱えながら、来週の予定を眺めながら、色々眺めながら、気になっているサイトの進捗状況がとても気になりながらブログを更新中←いまここ

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