石よ。嗚呼、石よ。
たまに無機物になりたくなる。
たとえば石。ifもしも、の世界ではないけれど。
あの静寂性には、何かしら心を揺さぶられるものがある。寡黙でハードボイルドなガイだ。
やはり町中にある石よりも、人気の少ない山などにある石がいい。海も好きだけど海にある石は、なんだか苔と共存している分、ずるい気がする。もちろん山にあるそれも例外ではないけれど印象論としていうならば。苔むすまでの石という悠久の年月にはロマンがあるけれど、でも、やっぱり凛と孤高を感じさせるスタンドアロンの石の方が、なんだか心を引かれる。
石はいい。
石は何も言わないのがいい。でも、何かじっくり考えている雰囲気を持っているのが哀愁を感じさせる。路傍の石を思い出すまでもなく。
石をペットにする話を聞いたって、そんなに驚かない。あの無骨さは、犬や猫が持ち得ないアウラを感じさせる。しかもタフだ。弱音をはかないし、負けない。
ローリングするストーンズでもいいけれど、おとなしい石の方がいい気がする。ただ、これは指向性の問題であり、趣味の領域だから、それに関して反論されても、別段、上訴する予定はない。
何年存在しているかの推測さえも拒絶するような永続性。もはや永遠さえも想起させる石のその表情には、何かしら人間という存在の対にある無限の締念を感じさせる。ジョジョのカーズを思い出してみれば良い。
無限という存在は人間を否定する存在なのだ。しかし石はそれを何も言わない。ただ存在として語っている。
石に職業があるならば、やはり僧侶か哲学者であろう。あるいは漁師やコンサルタントな石もあるのかもしれないけれど、それは短期的に見たもので、いわば、なぐさみ程度のかりそめ姿であろう。短期と長期では、その定義さえも異なるのだ。つまり、漁師を1万年続けていれば、もはやそれは僧侶といっても差し支えないだろう。原田の認識で言うならば。
ストーンサークルは邪道だ。何かしら顕示欲がそこに見えて、石の存在意義を否定している気がする。石は、やはり、隠者のほうが王道だろう。もっとも万人が万人、王道の道を選んでいると、王道の道はあふれてしまうので、そう考えると確率論としては、そのような「石の格差社会」も認めざるを得ないのだろう。
いつか小説を書くことがあらば、石を主人公にしたものをかいてみたい。猫やネズミ、木などが主人公の物語は読んだことがあるけれど、石が主人公の石はあるのだろうか。ただ無機物が主人公のものはなくもない。宮部みゆきはサイフを主人公にしていたし、短編ではパンツだか車だかが主人公の物語を読んだ記憶もなくもない。
石が登場する。そして、考える。二人称や三人称ではいけない。石の思いを伝えるのはやはり一人称でないといけないだろう。その石は、自分の生まれを覚えていない。なぜならそもそも石には死がないからだ。物事は必ず対称性を必要とする。脱構築したって、そこにはフレームがある。死がない石には生もないのだ。
ゆえに、石は考える。腹も減らないし、性欲もないが、石はずっと考える。時には蹴飛ばされ、時には雨に流され、時には日照りで割られ、それでも石は分裂症になることもなる、愚直に考える。
無限というものを考える。死なないということは、そもそも生も定義しえない。この星がなくなるまで石は存在し続ける。人間の認識で言えば、それは永久(半永久)といっても差し支えないだろう。リセットさえできない石。
風景はいずれ変わることなく、ただ水か砂の世界となる。相棒もおらず、ただ一人で永久なるものに思いを馳せる。
石はしゃべらない。他者とコミュニケーションをする必要がないからだ。石は笑わない。笑ったところで永遠が減ることはないからだ。
そして石はあらゆる可能性を検討する。無限の時間があるのだから、森羅万象に大しても思いを馳せることは可能だ。無限の時間があれば、無限への帰納法的思考が可能になる。フェルマーの定理だって石にお願いすれば、すべての解を計算して証明してくれるかもしれない。もっとも永遠に大して永遠で回答はでないから証明はできないのだけれど、それでも非反証性の論理を行使すれば、いい勝負だってできるのかもしれない。
石は恋をしない。ネズミは恋をしないけれど、それよりもずっと恋をしない。革命的に恋をしない。もはや、生を否定する存在には恋など必要はない。その世界には戯曲もなければ音楽もない。死神に音楽は必要でも、石には音楽が必要がない。なぜなら耳がないからだ。
それでも石は考える。
もしも私が石ならば。










