哲学ってやつは。

哲学、というものがある。
それは学問という意味での「哲学」として使われることもあれば、その人の考え方という意味で使われることもある。
Wikipediaによると
前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じる、学問の一種。また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる(ソクラテスの哲学、など)。
という定義だが、これはあまりにも広義であり、同時に狭義すぎる。いわゆるどこにもたどり着かない定義である。
そう、もっと血肉の通った定義を。
たとえば、村上春樹がよく使う言葉としては「カミソリにも哲学はある」というものがある。この場合、いわば教訓とでも言い換えることができるようなものが哲学。確かに、われわれは、どのような物からも人生の指針を得ることができ、あるいは、学ぶことがある。
カミソリで金槌を思い出して、カナズチといえば、確かカントがよく使う道具ではなかったか。そのカントの定義によると、確か「形而上学の学問」を哲学と捕らえたのではないかったか(うろ覚え)。それを具体的に落とし込むと「世界の果てがあるかどうか」「この世に神様はいるかどうか」の2つの設問になるような(ちなみに純粋理性批判で氏は両方を是非で証明するというアクロバットを成し遂げていた記憶がある)。
そう、カント。カントといえば、そのような哲学者の系譜が思い浮かぶ。ソクラテスから中島義道氏まで流れるような永久にも思える思考の流れ。恐らく、主観で言えば、哲学という言葉で示されるものはこの枠内に収まるのではないか、と思う。なぜなら「そのような故人が哲学者と呼ばれているから」という結果論からの分析である。
それらを前提に演繹した定義を出すならば、「知のフレームワーク」が哲学ではなかろうか。わかりやすいキーワードで言うならば、アウフヘーベンや脱構築、階級対立というような物事を捉えるためのフレームワーク。
もっとも他の学問でもフレームワークは存在(それこそ数学や物理学、社会学、心理学などあらゆる学問)するので、この定義にも味付けは必要だろう。
それでは哲学者とその他の学者と使っている武器は「フレームワーク」で同じだとしても対象が異なるゆえに、その「哲学」と「その他」は分かれるということになる。
では哲学は何を扱うゆえに特殊なのだろうか?個人的な思いで言えば、答えが出ぬものに対するフレームワークが哲学なのだろうと考える。そして答えが出ないことが、それの存在意義であり、答えが出るとそれは社会科学や自然科学となる。
それを考えた時に私は1つの質問を思い出す。「この世の中は何のために動いているのか?」というシンプルな問いである。
これに対し、確か、筒井氏の著作「文学部唯野教授のサブ・テキスト」では、アリストテレスあたりを使って、その問いを回答していた。
その時の衝撃は相当なものであった。そのような問いに回答ができるのか、と。それ以来、私の哲学観というのはそのような思いが含まれえる。もちろん、これらを長じて考えれば「生に関する」学問が哲学と言い換えることができる。
つまり「生」というものは永遠に答えが出ぬものである。それゆえに、哲学は「答えがでぬもの」を扱う学問なのだ。恐らくは。
いずれにせよ。そうして私は、若者たちによくあるように青春時代のある一定時期、はしかに被れたように哲学にかぶれた。いや、正確にいうと、かぶれたというのは矜持として正しくない。ただ知りたかったのだろう、と思う。それこそ、ソクラテスは当然のこと、キルケゴールやカント、ハイデガーなどの王道から、ヴィトゲンシュタインやレヴィストロースのような哲学の傍流(言語学や社会学)、はたまたフーコーやデリダ、ボードリヤールといった「ポスト」で呼ばれるような何かしらなど手当たり次第に。
網羅しているとは全く言いがたいけれど、それなりに手に付くものは片端から手にとって。いつか岩波文庫の青帯を読破したいというような衝動を伴ってむさぼり読んだ。わからぬままに、頭を絞って。
思い出すのはあるクリスマスでの待ち合わせ。天王寺のツリー前で待ち合わせをしながら資本論を読みながらいつもきっかり10分遅れる人を待っていた。時が時ながら(60年代ならば)、きっとややこしい話になったのかもしれないけれど、残念ながら時は、世紀末。「ソフィーの世界」というような哲学がポップでありキッチュにもなり得る時代だった。そりゃ丸山さんも読まれないさ。
でも、いずれにせよ、私はそのような知のフレームワーク、正確にいうならば生へのフレームワークへの渇望がそこにはあった。何かが枯渇し、それを埋めてくれるものを探し続けていた。そんな私だから、大学では政治学を学んだのは自然な帰結ではあったのだけれども。なぜなら、当時の私にとって「生」と「社会」というものは同義だったのだから。「生きとし生けるものは何をすべきか」という問いと「社会に対して、人はどのように付き合うのか」は、まさにサルトルなどをひかずとも、現代に生きる我々にとって、それは同じことである。話が逸れた。
そこで、私は何を得たのだろうか、と考えることがある。
もちろんある程度のフレームワークは得ることができた。だから、結局、世の中を騒がす論争も、過去の繰り返しでしかないということも認識できるし、さりとて、そのような繰り返しの中で何かが生まれてくるというのは、既にマルクスは看破しているので私が言うまでもない。
しかし、得たものはきっともっと別のものである。
基本的に哲学は無力でだ。なぜなら「答えのないものの論争」。そのようなものは社会に力を持つことができない。それはきっと、事業計画書のコンセプトとオペレーションの関係のようなものかもしれない。コンセプトがあるだけでは、キャッシュは入ってこない。オペレーションがないと何もそれは生まない。マルクスの哲学をレーニンが落とし込んだように。あるいは、グロティウスの理念を数百年かけて政治学者が具現化したように。結局、オペレーションがなくては哲学は何も生み出さないし、同時にオペレーションがあるとそれは哲学ではない。まさにチャイナウォールのように哲学とオペレーションは分離されている。
そこで思う。何を得たか、というものは、結果でしか表せないものではないか、と。たとえば、就職の面接で「何を学びましたか」よりも「何をしてきましたか」の方が重みを持つように。あるいは、「どんな言語を操れますか」よりも「どんなサービスを開発しましたか」のほうが響くように。
そこで、結局、自分が知の故人たちから学んだもというものを自分自身が知るためには結局アウトプットからしか知ることはできないのかしらん、と思う。どんな形にでもあれ。




