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2008年03月 アーカイブ

2008年03月02日

哲学ってやつは。

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哲学、というものがある。

それは学問という意味での「哲学」として使われることもあれば、その人の考え方という意味で使われることもある。

Wikipediaによると

前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じる、学問の一種。また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる(ソクラテスの哲学、など)。

という定義だが、これはあまりにも広義であり、同時に狭義すぎる。いわゆるどこにもたどり着かない定義である。

そう、もっと血肉の通った定義を。

たとえば、村上春樹がよく使う言葉としては「カミソリにも哲学はある」というものがある。この場合、いわば教訓とでも言い換えることができるようなものが哲学。確かに、われわれは、どのような物からも人生の指針を得ることができ、あるいは、学ぶことがある。

カミソリで金槌を思い出して、カナズチといえば、確かカントがよく使う道具ではなかったか。そのカントの定義によると、確か「形而上学の学問」を哲学と捕らえたのではないかったか(うろ覚え)。それを具体的に落とし込むと「世界の果てがあるかどうか」「この世に神様はいるかどうか」の2つの設問になるような(ちなみに純粋理性批判で氏は両方を是非で証明するというアクロバットを成し遂げていた記憶がある)。

そう、カント。カントといえば、そのような哲学者の系譜が思い浮かぶ。ソクラテスから中島義道氏まで流れるような永久にも思える思考の流れ。恐らく、主観で言えば、哲学という言葉で示されるものはこの枠内に収まるのではないか、と思う。なぜなら「そのような故人が哲学者と呼ばれているから」という結果論からの分析である。

それらを前提に演繹した定義を出すならば、「知のフレームワーク」が哲学ではなかろうか。わかりやすいキーワードで言うならば、アウフヘーベンや脱構築、階級対立というような物事を捉えるためのフレームワーク。

もっとも他の学問でもフレームワークは存在(それこそ数学や物理学、社会学、心理学などあらゆる学問)するので、この定義にも味付けは必要だろう。

それでは哲学者とその他の学者と使っている武器は「フレームワーク」で同じだとしても対象が異なるゆえに、その「哲学」と「その他」は分かれるということになる。

では哲学は何を扱うゆえに特殊なのだろうか?個人的な思いで言えば、答えが出ぬものに対するフレームワークが哲学なのだろうと考える。そして答えが出ないことが、それの存在意義であり、答えが出るとそれは社会科学や自然科学となる。

それを考えた時に私は1つの質問を思い出す。「この世の中は何のために動いているのか?」というシンプルな問いである。

これに対し、確か、筒井氏の著作「文学部唯野教授のサブ・テキスト」では、アリストテレスあたりを使って、その問いを回答していた。

その時の衝撃は相当なものであった。そのような問いに回答ができるのか、と。それ以来、私の哲学観というのはそのような思いが含まれえる。もちろん、これらを長じて考えれば「生に関する」学問が哲学と言い換えることができる。

つまり「生」というものは永遠に答えが出ぬものである。それゆえに、哲学は「答えがでぬもの」を扱う学問なのだ。恐らくは。

いずれにせよ。そうして私は、若者たちによくあるように青春時代のある一定時期、はしかに被れたように哲学にかぶれた。いや、正確にいうと、かぶれたというのは矜持として正しくない。ただ知りたかったのだろう、と思う。それこそ、ソクラテスは当然のこと、キルケゴールやカント、ハイデガーなどの王道から、ヴィトゲンシュタインやレヴィストロースのような哲学の傍流(言語学や社会学)、はたまたフーコーやデリダ、ボードリヤールといった「ポスト」で呼ばれるような何かしらなど手当たり次第に。

網羅しているとは全く言いがたいけれど、それなりに手に付くものは片端から手にとって。いつか岩波文庫の青帯を読破したいというような衝動を伴ってむさぼり読んだ。わからぬままに、頭を絞って。

思い出すのはあるクリスマスでの待ち合わせ。天王寺のツリー前で待ち合わせをしながら資本論を読みながらいつもきっかり10分遅れる人を待っていた。時が時ながら(60年代ならば)、きっとややこしい話になったのかもしれないけれど、残念ながら時は、世紀末。「ソフィーの世界」というような哲学がポップでありキッチュにもなり得る時代だった。そりゃ丸山さんも読まれないさ。

でも、いずれにせよ、私はそのような知のフレームワーク、正確にいうならば生へのフレームワークへの渇望がそこにはあった。何かが枯渇し、それを埋めてくれるものを探し続けていた。そんな私だから、大学では政治学を学んだのは自然な帰結ではあったのだけれども。なぜなら、当時の私にとって「生」と「社会」というものは同義だったのだから。「生きとし生けるものは何をすべきか」という問いと「社会に対して、人はどのように付き合うのか」は、まさにサルトルなどをひかずとも、現代に生きる我々にとって、それは同じことである。話が逸れた。

そこで、私は何を得たのだろうか、と考えることがある。

もちろんある程度のフレームワークは得ることができた。だから、結局、世の中を騒がす論争も、過去の繰り返しでしかないということも認識できるし、さりとて、そのような繰り返しの中で何かが生まれてくるというのは、既にマルクスは看破しているので私が言うまでもない。

しかし、得たものはきっともっと別のものである。

基本的に哲学は無力でだ。なぜなら「答えのないものの論争」。そのようなものは社会に力を持つことができない。それはきっと、事業計画書のコンセプトとオペレーションの関係のようなものかもしれない。コンセプトがあるだけでは、キャッシュは入ってこない。オペレーションがないと何もそれは生まない。マルクスの哲学をレーニンが落とし込んだように。あるいは、グロティウスの理念を数百年かけて政治学者が具現化したように。結局、オペレーションがなくては哲学は何も生み出さないし、同時にオペレーションがあるとそれは哲学ではない。まさにチャイナウォールのように哲学とオペレーションは分離されている。

そこで思う。何を得たか、というものは、結果でしか表せないものではないか、と。たとえば、就職の面接で「何を学びましたか」よりも「何をしてきましたか」の方が重みを持つように。あるいは、「どんな言語を操れますか」よりも「どんなサービスを開発しましたか」のほうが響くように。

そこで、結局、自分が知の故人たちから学んだもというものを自分自身が知るためには結局アウトプットからしか知ることはできないのかしらん、と思う。どんな形にでもあれ。

2008年03月09日

鏡に映った自分のような、あるいは。

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たとえば。

たとえば、恋人があなたに向かってこう聞く。

「歯にノリついてない?大丈夫かな」と。青海苔のかかったお好み焼きを食べた後なんかに。

それは時に、なんてことはない身だしなみを気にする質問かもしれない。しかし、場合によってはそれは「あなたの歯にノリがついている」ことを意味しているかもしれない。

恋人は「あなたの歯についたノリ」を見て、「もしかすると自分にも付いているかもしれない」と気づいたのかもしれないのだから。もちろんこれは可能性の話だけれど。つまり、相手の質問は自分への示唆となる。

あるいはこんな話がある。心理学の話として、「会話中、相手が髪の毛を頻繁に触っている時、相手はあなたのことが気になっている」という分析があるとかないとか。つまり、相手によく見られたいという欲求が髪の毛を整えるという動作になるとかならないとか(退屈な人も触るという説もあるそうなのでまぁ可能性の話)。

いずれにせよ、そのように、時に私たちは自分のことを周りを通して知ることになる。

少し関係のある話として、先日ベスト・オブ・ウケる日記 | IDEA*IDEAで紹介されていた「ミズノンノさんのブログでは以下のような話が紹介されていた。

恋人にネックレスをプレゼントする自分。しかし、そのネックレスを見るのは恋人ではなく自分である、という話。つまり

ネックレスを消費しているのは、他の誰でもない——自分である。

との話(もちろん、別の見方をすれば、外見をよく見せることが自分への利益にもなる故のツールという見方もできるけれどともあれ)

これは色々演繹できそうな話で。たとえば、背中なんていうのは、他者に見せるための存在で。しかし、それでもそこの肩甲骨を鍛える人がいて。あるいは声自体もそうなのかもしれない。自分の認識しているものを自分のためだけに理解するには、発音はいらない。でも他者に渡そうとすれば、そこに声が必要となる。

まぁ、つまりは人は他者を鏡として、あるいは他者との関係性の中で生きているという至極当たり前の数千年前からいわれている社会的動物ということを少し思っただけで。

でも、周りの人によって我が身はかわるというのは、なんだか非常に興味深い。子供のころ、いわれた「汚いものを見ていると自分の目が汚れて、すんだものを見ているときれいになる」というような、なんだかかんだか。恋人の癖は、自分に移るなんてものもそういうものなのかもしれない。あるいは、同属嫌悪だって、そういう自分の持つ課題を見せ付けられるために起こる心理なのかもしれない。

そしてふと思ったものがお葬式。

お葬式というのは、本人はまったく見ることもできないし、感じることもできない(一応、大多数の意見としては)。しかし、弔う周りの者は(残された者)は、お葬式に力を入れることもある。

これは、どこかの小説でも読んだが、「葬式は生きている自分たちのためにする」という言葉を思い出させてくれる。同時に、それは、葬式の意味付けをするのは他者でもある、ということを意味する。

たとえば東南アジアのどこかでは葬式はめでたいこととされているというのがあったような。まぁ、つまり他界がゴールということなのだろうか。インドのバラナシのガンガーでも同じ思いを感じることができる。

つまり、結局、お葬式でさえも、それがどのようなものなのかを決めるのは、周りのものなのだ。そして、たとえそれが悲しいものだとするならば、それを決めているのもあなた、というような。(蛇足だけど、お葬式で悲しいのは他界する方のことを思って悲しいのではなく、その方がいなくなる自分の身を哀れんで悲しいという心理メカニズムが存在するという話も聞いたことがあるけれど、わたくしにはその真偽はわからない。あくまでも与太話)

別段、メッセージがあるわけでも、何があったわけでもないけれども、そんなことを思ったり。人は他者に影響されているだけではなく、人が存在していることで自分も存在しているんだなぁ、と当たり前のことながら。

そう考えると、モノの価値を決めるのはモノではなく他者という話も俄然、何かしらの意味を帯びてきて。ケインズの美人投票の話や、ブランドが持つ価値(ブランドはその質ではなく、その値段に価値があるというもののようなパラドクス)は、結局、人が付与するもので。

そのフレームワークを応用すると、自分を定義づけるものは他者であるという永遠のジレンマが生じて、まぁ、結局はそのインタラクションの中に人はいる。

ゾウもオカピも。

2008年03月16日

おやすみなさいとエレベーターにて

エレベーター、というものがある。エレがベーターなもののことだ。

にた単語としてエスカレーターというものがある。どちらがどちらなのか区別がつきにくい人も全国に6千万人ほどいると言われている。花粉症よりも厄介な問題だ。対策としては、「エスカベーター」あたりとごにょごにょとしゃべっていれば、あとは相手がコンテクストから読み取ってくれる。

まぁ原意からいえば、「エスカレーションする」という言葉から判断するという方法もあるのだが、あいにくどちらも上昇するアフォーダンスをもっており、どっちもどっちである。まったく似た名前をつけたものの大罪はいかなるものとや。なんだかスペイン語のペロとペロとペロの違いくらいの憤りを覚える。英語のライスとライスでもいいけれど。

いずれにせよ、学生の私はどうがんばっても、その2つの区別がつけることができなくて。それこそ、あの泣ける映画「シャーションクの空」と「ショーシャンクの空」の区別がつかないように、もうお手上げだった。しかし、アメリカ留学のために英語を勉強する時に、すばらしいソリューションに気づいた。

そう、エスカレーターの形状と、「エスカレーター」という名前のリンケージに気づいたのである。つまり、エレベーターとエスカレーターの明確な違いは「階段」「箱」という違いの他に「ななめ上昇する」「垂直上昇する」という違いが存在する。

その「ななめ」という形状は、まさに「エスカレーター」の「エス」というアルファベットを体現しているのである。たとえば、デパートで2階と3階にあがるエスカレーターと2階のフロアを組み合わせれば、それはまさにエスとなるのである。

このようにして、世界の7大不思議の1つ「エスカレータ」と「エレベータ」の違いにけりをつけることができた。ただ、今でも、区別する時の、その形状を思い出してしゃべっているので、ひと呼吸おかざるを得ないけれど。

いずれにせよ。

いずれにせよ、エレベーターには物語が詰まっている。エレベータ内だけで終わる物語があってもいいんじゃないかと思うけれど、あまりそういうのは記憶にない。映画「cube」のおまけ映画がそんな感じだった気がする。あと、最近読んだ小説では「bingo!」にそのようなシーンが少しあったけれども、まぁ、あまりそんな物語は多くない。青年向けの映画(動画?)ならばエレベーターものもあるような気がするけれど、それはまた別の話。

しかし、高層ビル時代に生きる私たちにとってはエレベーターはかかせない。会社で乗り、自宅で乗り、飯やで乗り。

東京にすんでいる人でエレベーターに乗らずに生活するのは、ほぼ不可能ではなかろうか、というほどエレベーターは我々の生活を浸食している。

しかし厄介な存在である。個室であり、かつ、しかも、何かが生じたときにフォーリングダウンするという非常にインシデントフルな存在。そういえばダイハードでも、なかなかアクシデンタブルな乗り物でしたね。

見知らぬ人と、自動的に個室に閉じ込められる。そんな摩訶不思議な乗り物。しかも、垂直離陸。ロケットでもないのに。さらには、入っている人がみんな表示階のランプを眺めるというなんとも奇々怪々な仕草。まさにここは伏魔殿。

深夜にアパートで入るエレベーターに香水の残り香に鼻がひりっとしたり、あるいは森ビルの上かご昇降中の謎のメカニズムに人知を見たり、SPYのPVのエレベーターの意味に首をかしげたり。

いずれにせよ、エレベーターには物語が満載である。そうですね。全編エレベーター内でおこる物語を連作短編集なんてものも悪くないのかも。

そう。そして、仕事帰りにエレベーター。右手には溜まったポストの郵便物。ふと同箱する同じアパートの誰か。先に先方。「おやすみなさい」という一声。見知らぬ人との、思いがけぬ邂逅。ある種の現代一期一会。

そんな物語を抱えて、エレベーターは今日も上下にいったりきたり。

2008年03月23日

写真と文章と。

この世の中には写真を撮る人と撮られる人がいて、同時に撮られるのがすきな人がいて、撮られるのがすきじゃない人がいて、そしてどちらでもない人がいて。でも、撮るのがすきな人はいれども、撮るのがすきじゃない人はあんまりいなくて、それってば自己主張していないだけなのか、そもそも「がけ崩れ」が「崩れたがけ」にはならないような付加逆性を持っているからなのかわからないけれど、いずれにせよ、写真を撮るのがすきじゃないという人はあんまりいないような気がしているけれど。でも、個人的な経験で言えば、昔は好きじゃなくって。それは文章の力を崇拝していたころで、写真で撮ったものは文章で蘇ることはないというような諦念にも似た信仰を持っていて、そう考えると、文章を愛する個人としては写真は邪教でしかなかったわけだ。そういうわけで、海外を回ったときも、ほとんど写真はとらずに、ひたすらノートに文章を書いていて。それはイラストではなく、そのシーンをいかに自分が文章で再現できるかに挑戦していたような気がしていて。それは結局のところ、自分の記憶に立脚している限り、砂上の楼閣というか、共同幻想でしかないのはわかっているのだけれども、それでも文章の持つ力を諦めきれずにいて。ただ、逆にいうと、その文章のアンシンメトリーさというもの。つまり書いた人のイメージは書かれたものに反映されるけれど、読んだ人の思いはそこに反映されないというようなアンフェアネスがなんだか、そこにキーがある気がしていて。つまり、結局は文章というのは、あるがままに客観的なものを書くことが不可能であり、それというのは限界ではなく、文章が持つ別の役割を示唆しているだけではないかと。すなわちは、それは、文章はあなたが持っている体験や経験を想起させるトリガーである、という役目である。写真や動画は非常に客観的(のように見える)で、スペシフィックな物体を提示するけれど、逆にいうと、それらは閲覧者の想像力を限定とさせる。すなわち、雪山の写真を見て、魔の山を思い出す人は、ヒマラヤを見て魔の山を思い出す人より少ないのではないかという経験則に基づいた想像からしゃべっているのだけれど。だから、文章は雪山を100人が100人想像するそれに書くのは不可能だけれど(それは、まさに写真で映画を撮影するような次元のジャンプを必要とする)、逆にいうと、その機能というのは、相手のイメージに基づいた何かを記すイコンであるというわけである。それにふと思ってから、文章というのは、描写よりも、共通項というところを探すように務めてきた。たとえば、わかりやすく言えば「やれやれ」と書くと某作家のソレを思い出すように、これはいわゆるコミュニケーションの共通のマテリアルとして非常に有効で、すなわちそのようなもの。これっていえば、短歌のなんとか取りから脈々と流れる想起の手法の1つであり、なんら目新しいことではない。しかし、現代のような共通項が非常に多様化している昨今では、そのような共通のマテリアルは非常に限られていることになる。たとえば昨今はやった脳内メーカーだって、ネットをしない人にはどこ吹く風だし、テレビで流行っている裸のお笑い芸人だって友人は知らぬわけで、そうすると、結局、共通項ってば、あるのかしら、とかも思ったり。しかし、それで諦めるのではなく、逆に、このカルチャーのインフラが整っている昨今では、その再規制の高さに注目すべきではないかと思う。たとえば、ガンダムを知りたかったら漫画喫茶?いけばいいし、ブルーハーツを知りたければAmazonでその場で買えるわけで。あるいは、マネーの虎だってYouTubeにはゴロゴロ転がっているし、ブルデューをしりたけりゃWikipediaを読めばある程度を把握できる感じでございまして。そう考えると、そもそも土台となる共通のマテリアル(たとえば古典であったり、テレビ番組であったり、ヒットチャートの音楽だったりするマスマテリアル)は減ったけれども、友人と共有しようと思えばできるマテリアルは増えたのかなぁ、なんてそこに希望を少し感じている。まる

2008年03月31日

お風呂を食って生きてやる

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スタージョンの言葉を借りれば「どんなものも、その90%はカス」だそうだけれども、残りの1割に常に入り続けるであろう絶対的存在の1つが「風呂」である。

そう。お風呂。

なんかのコピーで「ON泉、OFF呂」という洒脱白眉なものがあったけれども、まさしくお風呂は人間の日々をオンとオフに切り替える濾過装置のようなものだ。

加えて、なぜかしら日本人である我が身としては、湯船の存在するお風呂、それをいとおしまずにはいられない。

そうお風呂。

実は、あまりお風呂は得意ではなくて。カラスの行水とよく母親に揶揄されていた幼少期。しかし、社会に出ることになり、改めてその価値を再認識せざるを得ないこととなる。
お風呂とは、もはや身を洗うところではなく心を洗うところ也。つまりは、シャワーだけの存在は、それはよもやお風呂とは言えまい。

まゆつば情報かもしれないが、どこかで「シャワーはマイナスイオンを発する」という情報を見たことがある(多分ガセ)。ロジックとしては、高いところから落ちる水が地面にたたきつけられる時に粒子がホゲホゲでマイナスイオンが出るのだとか。そのロジックで考えると、確かに滝が持つその効用も一概には否定できない。

だから、上記が嘘であろうと個人的には、その気持ちがわからないでもない。つまり、湯船だけではなくシャワーも、それはそれとして確固たる価値を世界に提供している。

人生で風呂に関する思い出を思い返す。

最初に出てくるのが、高校の時にいったNYでのお風呂。野宿前提でいった私は宿もなく、空港で寝て、そしてマクドで寝て、映画館で寝るばかりだった。

しかし、ある日、スコールを思わせるような大雨が降り注ぎ、私は、全荷物をせおったまま、世界の雨を全身で受けることになる。雨宿りしようにも、びしょぬれの身を囲ってくれる店は存在しない。世の中はそんなに甘くない。

そこで、私はやむなく宿を探すことになった。さんざ探して5件目で空いていたあるホテル。確かミッドタウンにあるホテル。ブロードウェイから数本、東に行ったところにあるホテル。

そこに私は、まさしく命からがらという表現のまま、飛び込んだ。そして、部屋で漬かるお風呂の気持ちいいことは比類なきものだった。

それは、数日間の放浪の垢を洗い落とすだけでなく、雨で凍えた身を暖めるだけでなく、頼るところがなかった我が身を守ってくれる水壁であったのだ。

そこで私はただ、ひたすらにお湯を浴び、お湯を浴び、何も食べずにお湯に潜っていった。

次に思い出すのが、ある静岡にある健康センターのお風呂だ。

これは、私が東京から大阪まで歩いていた時に通った道。静岡だから、確か東京の三田を出発して5日後くらいだろうか。

毎日40キロほどを歩き、足がパンパンにはれ、加えて、連日の風呂なしの苦行に我が身はへこたれていた。

加えて町は12月。箱根の峠を越えた身に、さらなる寒さが降り注ぐ。普段ならば野宿するところだが、あいにく、静岡のその一号線沿いには身体一つ横たえることができないほどだった。

何より、町は雨だったのだから。

そこで、遠くに見える健康センターの1つの光。夜中1時を過ぎていたころだろうか。もはや何も考えることができず、ただ、そこの受付に飛び込んだ。

その風呂の暖かかったこと、暖かかったこと。その露天風呂から見た天夜の空は、何事にも変えることができぬ美しさをただ遊楽と誇っていた記憶がある。

これが2つ目のお風呂の記憶。

そして、3つ目のお風呂の記憶は、それがいつのお風呂だったのかも覚えていない。

多分、社会人になってすぐのころだろうか。あるいは、いくつかの記憶が混ざっているのかも知れない。

その日は、ただ雨が降っていて。朝からザーザー降りの雨で。冬なので、寒い凍えるような雨。みぞれもまじっていたかもしれない。

曜日は土曜日だったろうか。とりあえず、何もない1日だった。そして、時間は朝だった。

私は普段の風呂は走ってきた後に入ることが多いのだが、その日は雨のため走れなかった。だから、なんとなく、朝からお風呂に入ることにした。

いや、恐らくは何かから逃げるため、あるいは立ち向かうためにお風呂に行ったのかもしれない。

雨がざばざばと降り続く土曜日の朝。そして、部屋は音もせず、明かりもつけず、ただ水の音だけがこだまする。

そんな中で、私はお風呂でただ腑抜けた風船のように湯船に浮かぶ。潜って、回って。そして、本を読んで。

何かしらの入浴剤が身体を包み込み。手垢にまみれた表現をするならば、まるで羊水に漬かる我が身。

厄介なToDoも、こんがらがったプライベートも全て忘れさせてくれるお風呂の湯気。水だけが持つ淡い静寂さ。そんなお風呂。

そう。お風呂はある種のエルドラド。現代の桃源郷であり、そして、シェルターであり、そして、リカバリー装置である。

ということで、お風呂に今日も入ろうかしら。

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