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2007年10月 アーカイブ

2007年10月09日

サドルを盗まれる男

サドルを盗まれる人、というものが居る。まさにサドルが盗まれることを定められた人生を歩む人。みかんの渋皮を好む人がいるように、そのような人がいたってなんら不思議ではないこの世の中。

しかし、できればサドルを盗まれる星の下で生まれるよりも、渋皮を好む人生でありたいものである。さりとて、人生、そのような思うがままに生きていけないことも事実である。誰しもが、イージーに思うがままの人生を送れるようならば、世の中にはサドルを盗まれる人がいなくなり、人生の仕組みが狂ってしまう。要するに、誰かは貧乏くじをひかねばならないのだ。

しかし、サドルを盗まれる人にも言い分があるのも事実である。誰しも好きでサドルを盗まれているわけではない。であれば、彼も何かしらの訴えることがあってもしかるべきであろう。かのヴォルテール卿が「私は君の意見には反対だ。しかし君がそう発言する権利については命をかけても守る」と言ったように、私もサドルを盗まれた人の意見には、公平に耳を貸したいと思う。

しかし、それは「貸したいと思う」だけであり、やっぱり、どう考えてもサドルを盗まれた人の話には興味がないのも事実である。ましてや耳を傾けるなんてことは、思ってみただけ以上の領域を超えることもなく、よって私ものりを超えることもない。サドルを盗まれたのは、やっぱり、サドルを盗まれるだけの理由がしかるべくしてあるのかな、なんて思うけれど、要はどっちだっていいのだ。

つまりは、サドルを盗まれたこと自体は愉快でもユニークでもないけれど、サドルを盗まれた人がその事象をどう捉えるか、ということについては、いくばくかの興味がないとは言えない。どれほどの憤りがその人に生まれたのかは興味があるし、ラブホで生理がくることとどっちがやるせないかと聞いてみたくもある。しかしながら、サドルを盗まれるということは相対的に語れるものではなく、ある種の絶対性を持っているのは、まごうことなき事実であり、だから世の中にはサドル犯罪というものが跋扈するのかもしれない。しかし、そもそもサドル犯罪なんて始めて聞いた単語だけれど、ないこともないのかもしれない。

そういえば、どこかでこんな物語を読んだことがある。ある1人の人がある人の自転車のサドルを盗んだ。その盗まれた人は自転車に座れなくなった。困ったので、彼は別の自転車のサドルを盗んだ。そうすると、それを盗まれた人はまたしても、別のサドルを盗もうとする。いすがないのに座ると痔になるやもしれないからね。でも、ともあれ、そうやってサドルを貸し借り連鎖がうまれ、世の中では仏教の悟りにも似たサドル輪廻が繰り返され始める。まさにそれってば椅子取りゲーム。あるいはババ抜き。誰が誰かよりも先んずる必要があって、その様相たるやまさに鳥獣戯画。

それで思い出したのが、SYNTAXさんのプロフィールか何かに描かれていた一文。エスカレーターの話。エスカレーターでは1人の人が足を止めることがある。しかし、それでとまった人によって、後ろの人も足をとめる。ないしは歩行を緩めなければいけない。それにより、その後ろにいる人はさらに足を緩めなければいけない。絶え間ない緩慢とした渋滞がそこに起こる。そして、それはいかにも解決できない類の渋滞。まさに、車の渋滞も同じ世界だ。たった1台の車の何気ないブレーキ。それにより、後続の車は、とめどない渋滞を巻き起こすことになる。たった3秒のスピード低下が、後続車に1割の「焦り」を生むとする。そうすれば、2台目の車は3.3秒の遅れを生むことになり、3台目の車は3.63秒の遅れを生んでいく。100台目には11時間の遅れを生むことによる。なんたる複利計算の罠。

そう考えるとサドルを盗まれた男も、彼は盗まれただけでなくそれに1割の焦燥感やじれったさ、あるいは憤りは付与されるとすれば、その初速の「それ」は、100人目に達するころには41,341倍になることになりもはや悲劇を通り越した喜劇。あるいは、それさえ超越したメロドラマ。そんな世界はまごうことなき無間の煉獄。インファナル・アフェアと輝く阿鼻叫喚の地獄絵図。

ああ、サドルを盗まれた男よ。もしもあなたが、もしその悲しみやせつなさを1人で抱え込めてくれるとするならば、彼は世界に起こりえただろう地獄を食い止めたことになる。たった1人での地獄を抱えることとなるが、それにより彼は、世界を救うことになる。嗚呼、サドルを盗まれた男よ。世界の平和はあなたの一挙一動にかかっているのだ。

2007年10月20日

性的なものに関して

最近、やたらめったら「性的なるもの」を目にする。といって「最近」とつけてはいるものの、最近なわけはなく、アダムとイブの時代から脈々と流れる話である。ただ「最近」とつけておくのがブログを書き始める時に書きやすいというだけだ。

さて最近。

「性的なるニュース」がやたらめったら増えている。もっともこれも増えているのではなく、増えているように感じるだけであり、実際のところどうなのかデータは見ていないので知らない。いずれにせよ主観としては、そのような傾向を見受けられる。たとえば警察官や政治家、あるいは教職者などの職業の人周りの性的事件から、それ以外のさまざまな人の特殊な性的な事件。もちろん、暴力的な性的事件なども後がたたない。

そして「小説」でも性的なものが溢れている。もちろん当然ながらこれも最近に限ったことではないが、私が生きているのは最近なので、最近とつけているだけである。たとえば代表的なもので村上春樹。村上龍も、山田詠美も、石田衣良も、ぶらぶらぶら。ある物語には必ずといっても性的なシーンが含まれる(ちょっと言いすぎだけど)。もちろんそれらが物語に必要な「場合もある」というのは否めないし、そもそも自分は専門家でないので、だめだしする根拠は持たない。ただ、いずれにせよ、性的はシーンが多い。

他の事例は挙げるまでもない。映画に、雑誌に、テレビ番組に、といつも僕らは性的なるものと一緒にいたわけだ。おそらくは。

確かに、某共同通信の大先輩いわく「人が集まるのは、Wine、War、Womanだ」という箴言を考えると無理からぬものなのかもしれない。人間は性的なるものに惹かれるのだ。まさに電球に集う昆虫のように。閉店セールに集う主婦のように。

同時に、性的なるものは、常に災いを生んできた。それこそイブが衣類を着ていたらアダムはりんごをとって誘惑しようとしなかったであろうし、イザナギはイザナミと子を産まなかったであろう。ヒットラーもリビドーに動かされマジノ線を突破しなかったろうし、隣のおっさんはストリーキングはしなかったろう。

現在でも、性的なるものは金をうむ水脈として愛され、同時に火中の栗として渦中に常に存在した。性的なるものあるところに金が集まり、そしてそこに揉め事が起こる。まさにいわばこれはパンドラの箱。ただ、同時にそれは尊いものでもある。たとえば、性的なるものがなければ、人間は生殖を原則的にはできない。

また、それに付随する「感情」や「快楽」も、時には人を動かすモチベーションとなり、それが世界を動かしてきた。

村上龍の言葉で「世界中の人々がいつもセックス中の感情なら、世の中には戦争は起こらない」というものがあった気がする(うろ覚え)。しかし、逆に考えれば、「世界中の人々がいつもセックス後の感情なら、世の中にはイノベーションは起こらない」と言い換えることもでき、なんともかんとも言えない。

しかし、それでも考えるには値するだろう。この世の中から性的なるものがなくなれば、世界に平穏は訪れるのだろうか。たとえばソクラテスに関するジョークとして「ソクラテスは悪妻をもったからこそ、あれほどの偉業を成し遂げることができた」という話がある。つまり、良い嫁を持つとそのエネルギーはそこに向かい、別の何かに昇華されないのである。同様に司馬遷も確か、そのような話の1つとして取り上げられることもある。

そう考えると、世の中から性的なものがなくなると、人々は常に哲学的になりえるのかしら、などとも考えられるが、これはあくまでも特殊な事例の演繹でしかなく、統計的には何も生み出さない。ただ少なくとも、経済は滞るような気はしないでもない。それこそど真ん中の風俗業界は無論のこと、アパレル業界、飲食業界、エンターテイメント周りなどは、ことごとく「積極的な利用者」を失うことになる。

ふむ。おとしどころを考えないまま書いていたのだけど、いずれにせよ性的なるものには、プラスにもマイナスにもおおきな力があるということはとりあえず異論がなかろう。たとえその対象が2次元であろうと3次元であろうとも同様の話である。

ということで。オチが思いつかないので、上記にも出した村上先生の1文を拝借。

でもセックスの領域でフェアネスというものがどれだけ意味を持つのか、と僕は自問してみた。
セックスに公平さを求めるんならどうしていっそのことミドリゴケにでもならないんだ。
そのほうが話が早いじゃないか、と僕は思った。

2007年10月27日

写真の2つの効用と写真が上手な人の世界の違いに関して

ss.jpg

最近、再び、写真熱が上がりだしてきていて。ついでに久々にポラ風写真をつけてみた。

いつでもカメラを持ち歩いている。撮るチャンスはあまりないのだけど、飲み会で友達などを撮影させていただいたり。あまりに撮りすぎて顰蹙かったり。

そこで、ふと思ったのが、カメラの、ひいては写真の魅力ってなんじゃらげと思った。つまり写真には、どのような価値があるのだろうか?と考えた。

1つは言うまでもなく思い出保有装置としての媒体価値だろう。人間の記憶はあいまいで適当で忘却の定めにある。しかし写真はまじめにちゃんと「それ」を覚えていてくれる。50年前の写真でも、そして100年前の写真でも、あるべきものはずっとそこにある。たとえ色あせようとも、その存在感は変わらない。

もう1つは、日常異化効果なのかも、と思った。1点目と矛盾が生じるのだが、「カメラが撮影したそのシーン」とは、ありのままのそれではなく、写真として切り取られた一瞬でしかない。つまり、連続的な時間を分断するツールとしてシャッターが存在する。そう考えると、カメラで写し取った世界とは、現実の社会とは異なるものと捉えることも可能である。そうすれば、現実社会を異化されるものとしてカメラは存在することとなる。

村上春樹の小説の1文で、確かこのようなものがあった。「どのような陳腐な日常だって、手紙に書いてみると、とても魅力的なものに思えた」というような。(ノルウェイでヒロインに手紙を書くシーン)。カメラにもそれと同等のことが言えるのではないか。

つまり、「何気ない日常」であろうとも、カメラが介在し、写真になったその世界は、まるで「新しい日常」として生まれ変わる。つまり、革新的なルーティンとでも言うべき、世界の見え方がそこにある。

実際、写真撮影がうまい人は日常を撮影するのが上手だ、と個人的には考える。ものめずらしいものではなく、事件性のあるものではなく、素晴らしい自然でもなく、何気ない誰にでもある、どこにでもあるような日常を、彼らは、新しい見方で見ている。

たとえば、いつもと変わらない彼のポートレイトが、ある人の手にかかれば見違えるようになるように。あるいは、単にテーブルにのったいつものミルクポッドが、あたかも実在的存在として生まれ変わるように。または、道端に咲いている雑草が息吹を吹き返すように。

そのように、撮影者は、世界を違った目線で見ることができる。そう考えると、写真の良い、悪いは技術的なものよりも、「どうやって世界が見えているか」というほうが大事だと考えることもできる(もちろん技術も大切だけれど相対的なものとして)。

確かアーティストの草間弥生さんも、あんな独特な世界を作り出せるのは彼女の見ている世界が、実際そのようなものだから、という話を聞いたこともあり。また高木君によると、なんちゃらというカメラマンの写真はこれまた色彩がすごい独特だが、彼にとっての日常はそのように見えているから、だとか。ちなみにこれは以前書いたアウトサイダーたちの物の見方とも通ずるところがあるような気がしないでもない。

そう考えると、写真が上手な人というのは、世界が違う風に見えている人なのかもしれない。そんなことを思った今日この頃。

※本文と関係のない募集

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