サドルを盗まれる男
サドルを盗まれる人、というものが居る。まさにサドルが盗まれることを定められた人生を歩む人。みかんの渋皮を好む人がいるように、そのような人がいたってなんら不思議ではないこの世の中。
しかし、できればサドルを盗まれる星の下で生まれるよりも、渋皮を好む人生でありたいものである。さりとて、人生、そのような思うがままに生きていけないことも事実である。誰しもが、イージーに思うがままの人生を送れるようならば、世の中にはサドルを盗まれる人がいなくなり、人生の仕組みが狂ってしまう。要するに、誰かは貧乏くじをひかねばならないのだ。
しかし、サドルを盗まれる人にも言い分があるのも事実である。誰しも好きでサドルを盗まれているわけではない。であれば、彼も何かしらの訴えることがあってもしかるべきであろう。かのヴォルテール卿が「私は君の意見には反対だ。しかし君がそう発言する権利については命をかけても守る」と言ったように、私もサドルを盗まれた人の意見には、公平に耳を貸したいと思う。
しかし、それは「貸したいと思う」だけであり、やっぱり、どう考えてもサドルを盗まれた人の話には興味がないのも事実である。ましてや耳を傾けるなんてことは、思ってみただけ以上の領域を超えることもなく、よって私ものりを超えることもない。サドルを盗まれたのは、やっぱり、サドルを盗まれるだけの理由がしかるべくしてあるのかな、なんて思うけれど、要はどっちだっていいのだ。
つまりは、サドルを盗まれたこと自体は愉快でもユニークでもないけれど、サドルを盗まれた人がその事象をどう捉えるか、ということについては、いくばくかの興味がないとは言えない。どれほどの憤りがその人に生まれたのかは興味があるし、ラブホで生理がくることとどっちがやるせないかと聞いてみたくもある。しかしながら、サドルを盗まれるということは相対的に語れるものではなく、ある種の絶対性を持っているのは、まごうことなき事実であり、だから世の中にはサドル犯罪というものが跋扈するのかもしれない。しかし、そもそもサドル犯罪なんて始めて聞いた単語だけれど、ないこともないのかもしれない。
そういえば、どこかでこんな物語を読んだことがある。ある1人の人がある人の自転車のサドルを盗んだ。その盗まれた人は自転車に座れなくなった。困ったので、彼は別の自転車のサドルを盗んだ。そうすると、それを盗まれた人はまたしても、別のサドルを盗もうとする。いすがないのに座ると痔になるやもしれないからね。でも、ともあれ、そうやってサドルを貸し借り連鎖がうまれ、世の中では仏教の悟りにも似たサドル輪廻が繰り返され始める。まさにそれってば椅子取りゲーム。あるいはババ抜き。誰が誰かよりも先んずる必要があって、その様相たるやまさに鳥獣戯画。
それで思い出したのが、SYNTAXさんのプロフィールか何かに描かれていた一文。エスカレーターの話。エスカレーターでは1人の人が足を止めることがある。しかし、それでとまった人によって、後ろの人も足をとめる。ないしは歩行を緩めなければいけない。それにより、その後ろにいる人はさらに足を緩めなければいけない。絶え間ない緩慢とした渋滞がそこに起こる。そして、それはいかにも解決できない類の渋滞。まさに、車の渋滞も同じ世界だ。たった1台の車の何気ないブレーキ。それにより、後続の車は、とめどない渋滞を巻き起こすことになる。たった3秒のスピード低下が、後続車に1割の「焦り」を生むとする。そうすれば、2台目の車は3.3秒の遅れを生むことになり、3台目の車は3.63秒の遅れを生んでいく。100台目には11時間の遅れを生むことによる。なんたる複利計算の罠。
そう考えるとサドルを盗まれた男も、彼は盗まれただけでなくそれに1割の焦燥感やじれったさ、あるいは憤りは付与されるとすれば、その初速の「それ」は、100人目に達するころには41,341倍になることになりもはや悲劇を通り越した喜劇。あるいは、それさえ超越したメロドラマ。そんな世界はまごうことなき無間の煉獄。インファナル・アフェアと輝く阿鼻叫喚の地獄絵図。
ああ、サドルを盗まれた男よ。もしもあなたが、もしその悲しみやせつなさを1人で抱え込めてくれるとするならば、彼は世界に起こりえただろう地獄を食い止めたことになる。たった1人での地獄を抱えることとなるが、それにより彼は、世界を救うことになる。嗚呼、サドルを盗まれた男よ。世界の平和はあなたの一挙一動にかかっているのだ。



