人は見かけによらない
人は見かけによらない。それは明白たる事実でございます。しかし、その示唆するところはあまりにも多岐にわたる。
たとえば、これは「人の内面と外面は一致しない」という定理を導き出すことにはならない。可能性の問題としては「人の内面は外面に一致しないこともある」という話だけである。
確かにこれだけを見ると何のメッセージもない。つまり「人は明日死ぬこともある」といっているのと同じである。その起こる確率を明記しない限り、こんな可能性の示唆はなんの役にも立たない。
ただ、一点、ここから導き出せるメッセージがあるとするならば「人の外面と内面は常に一致することはない」という事実だけである。
しかし、それでくくるほど、この言葉が意味するものが小さいわけではないことも事実である。なぜなら、長い年月、こうしてある種の慣用句として人口に膾炙するわけであるから、それはそれで何かしらの真理がそこに含まれているのかもしれない。つまり、この言葉が長い年月という淘汰の中でも生き残っていたことには何かしらの意味を考えるのは、やぶさかな話ではない。
あるいは「人の内面と外面は常に一致することはない」という凡庸なる事実が、人の心をひきつけるのかもしれないけれど、それも可能性の域を出ない以上、上記を検討してみることは一考に値する。
たとえば先日、エスとエムの話を書いたけれど、エムっぽい人が実はエスだったり、なんていうのは上記の一例。あるいは泣き虫の人が実は踏ん張りがきいたり、勉強ができそうな涼しい人が実は勉強嫌いだったりとする事例には事欠かない。
そしてこのような「意外性」というものは時に人をひきつけてやまない。それこそ性癖でいうところのツンデレや赤ちゃんプレイなどは、その根拠となりうる破壊力を秘めている。
つまりはそれらの意外性のあまりにも高いインパクトに、人は、つい「人は見かけによらない」という語句で、それを理解しようと勤めるのではないか。つまり緩和剤としての慣用句である。
手垢にまみれた慣用句や常套文句は人間を思考停止するのに最適なツールだと、かの筒井氏は「言語姦覚」で看破した(少しニュアンス違うかも)。
つまり、たとえば人が何か救いがたい失敗をしても「魔が悪かった」という言葉ですべてをなぎ倒すことがある。あるいは「がんばっていればいいことがあるよ」という言葉は平凡な日常のエクスキューズとして使われることがある。あるいはニュースを見たまえ。「痛ましい事件です」「こんなことはあってはならない出来事です」「真摯に受け止めたいものです」などといった文句は、あらゆる悲劇のエンドロールにいつも登場し、それ以上の思考を留めてしまう。
「なぜ」を抜いた慣用句は、便利でありながらも、諸刃の剣として存在しうる。
そう考えると、そのような人間の日常におけるインパクトバッファとしての「人は見かけによらない」が存在するのではないか?
と、ここまで思いつきで書いてきて、あまりにも救いがないので、違う結論を検討。
もう1つの可能性としては「人は見かけによらない」という言葉は人はある種の祈願の言葉として口にするのではないか。
人は多様性を持つ生き物である。しかし現代においては、その「個性」が勘違いされている傾向にあると言われるという(確認はしていないので不明)。もしその仮説が事実ながら、「人とは違いたい」という人々の欲望の発露。
あるいは、「いつか変われるかもしれない」とあるかどうかわからない自分の別の性格や秘めているペルソナを夢見て、人は独白するのだ。「人は見かけによらない」と。


