いつだったか。
おそらくは数ヶ月前。急に閃いたことがあった。天啓とでも言うような。あるいは、青天の霹靂とでも言うよな。誇張して言うならば。
それは、明白の1つの事実だった。
50年ちょっともすれば自分は死んでいるのだ、という明白な事実。
もちろん、それは平均余命から逆算したものだけれど。男性の平均寿命は80歳。そして私はすでに27年弱生きている。ゆえに、あと50年もすれば、大よそ死んでいる。
80歳より長生きする可能性を検討する必要はない。それ以上生きることが出来たならば、それは「もうけもの」というだけだ。あくまでもバッファ。ナンセンスな極楽。いわばオプション。ブレイクファースト付き。
別段、これはネガティブな意味で言っているのでは全くなくて。その事実をやっと理解した、というか。人間は厄介なもので知っていることと理解していることは全く別物である。私が言うまでもないことだけれど。もっとも理解、という言葉よりも、認知、という言葉のほうが通りがいい場合もあるけれど。
なぜそんなことを思ったかというと、部屋を見ていてそう閃いたのだ。本に溢れている部屋。物に溢れている部屋。どちらかというと私はモノを捨てられないほうで。そして、困ったな、と思っている時に、上記の事実に気が付いた。私は50年後死んでいる。
そう考えると、モノを持つことが非常に馬鹿らしくなった。たった50年もすれば全部ゴミになっているのに、なぜそんなものを所有しなくちゃいけないんだろうか、と。余計なものを背負っていると、地面との摩擦は大きくなる。そして速度は低下する。身軽なほうがいい。50年を走り続けたいならば、身は軽いほうが良い。
もっとも、コーナリングを上手にするためにも鉛がいるのだけれど。だから一概に身軽なほうが良いとは言い切れない。個人的な思いとしては。わが祖国、岸和田で軽快に街を走る「だんじり」も、ちゃんと鉛がタイヤに入っている。だからこそ、S字カーブを上手に曲がることができるのだ。そこから言える教訓は「自分にとって都合のいい事実だけを教訓とすべし」ということだ。
ともあれ、50年。それは人の捕らえ方によって長くも、短くもなる。そして人間の心理的に「素敵な時間は短く」「ヘビィな時間は長く」感じるという当たり前の状況が存在する。アインシュタインはそれを相対性理論と呼んだけれど。なかなか小粋なジョークだ、と思う。
そして、もしあなたが人生をHAPPYに、と願うならば、そして実現されるならば幸せな時間を手に入れる。そしてそのような時間はあっという間に過ぎていく。上の論法から考えれば。そして、逆に願ってもHAPPYな時間を手に入れられなければ、時間は長い。そんな辛い時間ならば「早く過ぎてくれ!」と願うだろう。そう願うことによって、過去は思い返した時に早く流れている。時の流れとはそういうものだ。そのハザマにおいては怠惰な無益な冗長な時間な流れだとしても、終わってから振り返ってみれば、「あっというま」の時間なのだ。サガンが言うように。
ちなみに若い時の1年は短く、年を取ってからの1年は長い、という話がある。これにもロジックがある。若いひとも年老いている人も、人生の長さは同じである。つまり総体で見れば「人生の長さはこれだけだ」という感性は決まっている。いくら10年長生きしたからといって「人生の長さはこれだけだ」と感じる感覚は伸びてくれない。ゆえに、ガキでもおじいさんでも、人生の長さは一定量である。そして、若い人、たとえば10歳の子供。彼にとっての1年は、「人生総量」の1/10が1年である。つまり10年分の1年分が1年なわけだ。しかし、100歳の老人にとっては「人生総量」の1/100が1年である。100年分の1なわけだ。おわかりだろうか。つまり人生総量が誰にとっても同じ感覚として認識されるならば、10歳の子供の1年は、100歳の人の1年の10倍もの長さがあるのだ。もっともこれもいくらでもの反証可能性があるので(そもそも人生総量が一定であるという事実は前提としていて、検証をしていないという点でおかしい)、あくまでも手慰み程度の小話とお考えくださいませ。考え方の1つのフレームです。人生とは過去の経験から演繹されるもの、とうことの。
ともあれ50年という月日は、あなたが幸せであろうとなかろうと、「早く過ぎていく」ものなのだ(ここに若干論理飛躍があります)。そう考えると、50年なんてあっという間。そして、いずれにせよ、それを我々は認識しなければいけないわけで。
そう考えて上記の結論が出た。「ああ、もう50年もすれば死んでいるんだ」と。この考え方は非常に個性に依存する結果を産む。卑近な言葉を使えば「ポジティブシンキング」になれるし、ネガティブに捕らえれば「即物的即興的即時的つまりは刹那的」な人生を歩むことになる。でも故人の言葉にあるように「今、眼前にある問題は50年後も同じ重さを持って、自分に降りかかってくるだろうか?」という仮説を立てることは時に有効である。眼前の問題の重さを相対的に下げてくれる。もっとも、これも詭弁であり、眼前の問題を上手にいなせなければ、50年後の人生はひどく変わっているという考え方もできる。つまり、若いころの1つの選択肢には、おもいきりリバレッジが効いてしまう、という考え方である。ただし、いずれと捉えても問題ない。なぜなら、これは処世術と呼ばれるような1つの考え方であるゆえに、道具でしかない。自分にとって便利なほうを選べば良いだけである。
そういうことを最近は意識しているようになっていた。「最近どうよ?」と聞かれて「もうすぐ死ぬんだなと感じている」と答えると、「落ちてるね」といわれてしまうハメになる。個人的には、まぁ、長期的に見ればアンダーな最近ではあるけれど、基本的にはボラタリティが低いほうだと思っている。けれど、自己認識なんて、河童の耳垢程度の信憑性でしかないから、結局、どうだっていいのかも知れない。
ただ、自分の中でのベンチマーク。それはキャリアパスやライフワークで言うところの目標や期限ではなく、時間をどう認識するか、どこにポインティングをするかということは意外に大切なような気がしている。つまり目標をプロットする前のスパンの問題だろうか。時間への外的な認識だと考えてもいい。つまり、平たく言えば人生を80年と見るか50年と見るか、ということだ。
で、たとえば以前、村上春樹の小説を引用して「人生の折り返し地点を決める」という話しに触れた。以下参照。そこで、僕は人生を折り返した気分になっていたのだけど、最近は折り返したどころか、もうハワイのフルマラソンで言うダイアモンドヘッドを降りた地点の気分になっている。その心は、民家でビールが振舞われてぶっ倒れるランナー続出。罠。
つまり人生を何年とおくか。その中での余暇時間はいくらか。蛇足だが先日の日経新聞を読んで驚いた話があった。65歳だかで退職した後の余暇時間は、それまでの余暇時間の累計より多いそうだ。お分かりだろうか。つまり、人生は65歳以降から再度、始まる。まさにセカンドライフとは言いえて妙、ということがわかるだろう。さりとて、その頃には、セックスもままならないし、今ほどの歯を持つことが出来ない。フルマラソンもいささかキツイだろう。そう考えると、それなりのスペックを保ったまま人生を歩みには、人生の巻尺が必要となってくる。そして、その中における選択肢が65歳以降の余暇時間を左右していくわけである。言うならば。
何がいいたいかというと、ラストスパートするタイミングを見誤るな、ということである。そのタイミングまでに全てをチューンナップしておく必要がある。ここぞ、という時に踏ん張れるように。それゆえの人生50年なのである。「人生50年」と考えることは、フルマラソンの距離を認識し、どこからラストスパートをかけるか、ということを把握しておくことに他ならない。
そして、スパートをかけた時には、もう疲れた、なんてことを思う暇ないのだ。心臓が参るか、あるいはゴールのテープを切るまでは頭を真っ白にして走り続けるしかないのだ。それがスパートの定義である。
久々に最後はライブラリから引用。森博詞氏の名言。読者からの問いに答えるという本からの引用だ。
質問:東京タワーの上からプルタブを落として、人が死ぬと言うのは本当ですか?
そして彼はこう答える。
答え:人はいずれ死ぬので命題としては真。
きっと風が吹いても人は死ぬのだよ。愛があろうとなかろうと。夢があろうとなかろうと。そしてさらには幸いなることに人は死ぬまでは生きている、という歴然たる事実である。なむさん。
嗚呼、素晴らしき哉。人生也。

