
部屋は、揺るぐことのない聖域である。
断固として、悠久として、不断の帰結として、自室はサンクチュアリたり続ける。
決して侵されざる我が身の母体としてのMyRoom。
Right?
自室が尤も寛げる、という事に異を唱える人はなかろう。
たとい、それが幾ら汚れていようと、messyだろうと、狭かろうと
部屋は、そこに貴方が住む限り、濁らずの住みかたり続ける。
さて。
最近、自室で呆けている事が多い。
何するでもなく、ぼーっとふやけている。
多かれ少なかれ人間といふ生き物にはそのような時間が欠かせない。
しかし、つとに思うのは、
その時間がなんと愛しいことか、ということだ。
人間を大きく二つに分けるならば
行動的な人と、行動的ではない人に分かれる、とする。
行動的な人は常に外を駆け回る。
半ズボンで虫かごとかNikonをもって。
そして行動的でない人は
自室で引きこもってオモコロを愛でる
それに良い悪いというものはない。
ただ傾向だけがあるだけだ。
しかし、実のところ、人間はそんな性別のように簡単に二分法で分けられるわけもない。
みな、誰もが誰も、時に行動的になり、
時に行動的でない人になる、というのが当然の摂理である。
つまり。
つまり、「私/僕は一人が好きだ」という事は
必ずしも、常に一人で生きられる、ということを意味しない。
飲み会やパーティなどの人がうじゃうじゃいる場所を嫌う、という傾向や
あるいは、時に自室で一人で居ることに恍惚を覚える傾向が強い、というだけに過ぎない。
そして、再度言うが、それは誰しもが持っているアンビバレントな傾向である。
明確な線引きはない。
しかし、さりとて
どちらの傾向に傾きがちか、という点で人を分けることが可能なのも事実である。
最近、周りで「Lonely」という声をよく聞く。
特定の誰か、というよりも、男女問わず2桁くらいそんな声を聞いた。
一般的には女性の方がその傾向は多いのかも知れないけれど。
世界は寂しさで満ちている、という映画を撮りたくなる程、
周りでは閑古鳥がなくように、寂しさに打ち震える子兎が
ぴょこたんぴょこたんあんよがお上手。
これは、恐らく社会的な傾向なのかも知れない。
知らないけれど。
ペットブームや、ホームパーティブーム、携帯ゲーム機の隆盛とかを
そんな寂しさ傾向の要因として言いたいのではなく、
単純に寂しさってのは、時間が出来たら生まれるものではないか、と思うわけで
世界では、金が増えた分だけ、その分、質量保存の法則として時間が増えたんじゃないか、
とか勝手に思っている。
もっとも、金と時間の質量が等号ならば金が増えれば時間も減るわけだけど、
その辺は、バファリンの半分が優しさで出来ている構造と同じで
ブラックボックス化されていて厚生省も手が出せない。
で、ともかく、何が言いたいかというと、
自室最高だね、ということである。
基本的に、マクロで分けると
男は全員「1人好き」族に属するような気もする。
特に周りの男性陣を思い返すと
中には世界が滅んで1人になっても彼は平気で理科の実験を続けているのではないか、
と思えるほどタフな人もいるわけで、そういう人は
世の中の寂しさ平均値を嵩上げしているような気もするけど
はっきり言ってどうでもいいパラグラフを書いてしまった。
しかし、最近は比較的行動派になってきているんじゃないかとも思ったり
思わなかったり。
高校や大学初期の頃は、飲み会とかに出掛ける時間と本を読む時間を常に天秤にかけて
その飲みに行く時間で、どれだけの本を読めるかを常に計算していたのだから。
そうそう、どうでも良い蛇足を思い出したのだけど、
この機会コストの概念って、万人が万人持っていると思っていたら
そうでもないというのを最近知った。
時間は複利計算というのを以前書いたような気がするけれど。
まぁ、でも、最近は、そんな時間時間って言っていてふと
人生の価値の総量が時間で計れるのではないかと思って
ちょっと考えたのだけど、すぐに原則的には無理という結果が出て飽きた。
さらに蛇足で思い出したけど、時間という概念は、直線時間と相対性時間の二種類があるんだけど、その相対性時間の概念を把握するならば、科学書よりもトマスマンの魔の山が絶対に良いように思う。さらに蛇足を続け宇rと大学一年のころ時間に関する論文を3桁ページ書いた事があって、この直線的時間(アリストテレス的時間)と相対性時間の他に「あなた時間」的時間概念があるのではないかと提唱したのだが、どうでしょうか。南無
で、蛇足を5重ほど繰り返したので、
まるでシャンゼリゼ通りをエッフェル塔目指して歩いていたのに、ルーブル美術館にたどり着いたような凄いI Am godam Lostな感じを味わっている昨今です。
そうだ、何がいいたかったんだっけ。
ああ、Perfume というアーティストをこないだ教えてもらって。
Youtubeはこちら。
カラオケで歌ってはるのを見て感銘を受けた。
YouTube - perfume-リニアモーターガール
大分前、Yuuさんとか、けんすうとかメッセンジャーでかけてはったような気がして
何気に気になっていたのだけど。
で、それ以来、けんすうの影響もありピコピコしたのがヘビーローテになっている昨今ですが皆様、ゴキゲンいかがでしょうか。特にメッセージも伝えたいこともないのに、勢いで書いてしまいました。ごめんなさい。
さて、ルーブルからモンパルナスまで来てしまったから急いで戻りましょう。
なんだったけな
自室が良いという話?
ふむ。で、じゃあ、自分自身は、自室にどれ位篭れるかをシュミレーションしてみた。
個人的には一ヶ月位位は、誰1人に合わずにも
部屋でこもれる気がする。
勿論、ネットはなしで。
ネットはずるい。
その内訳は
食事5%、映画5%、睡眠20%、読書50%、アウトプット20%、その他10%とかだろうか。
実際、昔はそんな生活だった気がするなぁ。1日10冊とか平気で読んでたもんなぁ。
本屋で買う単位が常に二桁後半冊の単位だった大学1年の夏。
ああ、さらにどうでもいいけど
読書は常にアウトプットしないと破裂しちゃうような気がする。
今はこうやってブログという場もあるし、
日記も、19歳の頃から7年間、基本毎日書いているので、それがある種の
アウトプットになっている気もするけど。
あ、あとまめに前までは読んだ本の背表紙に読んだ日付と感想を全部書いていた。
ねじまき鳥クロニクル(下) 1998年12月4日 「このオチはずるい 云々」みたいな。
またもずれたよ。
えっと、部屋は最高、最高。Agree。Agree。
あー、でも意外と3日くらいで「嗚呼寂しい」とかなるのかも知れないなぁ。
人間、人に会わないと、独り言が多くなるらしいですよ。
独り言が多い人は、体内が寂しさで満たされているので、
供給しましょう。
で、そうですよ。
たまにさ仕事早くあがって、なんだかこのまま帰るのは
もったいない気がして、飯でも食うか、と誰かに電話しようと思うのだけど、
それよりもむしろ部屋でゴロっとしたい、と思う経験てば誰にでもあるはずで。
それゆえに逆に、その時間があまりにも贅沢で高貴。
高貴は言いすぎか。しかし、欠かされざるもの。
人間は社会的動物といったのは、アリストテレスだったか?
つまり、その言外には、人間は一人ではいきていけないという帰結が待ち受ける。
若干のジャンプはあるけど。
さりとて、人間は、スプートニクであり死ぬ時はいつも1人。良かれ悪しかれ。ついで言うと、トイレで用足す時も1人だし、眉毛を抜いている時も一人だし、あさ寝ぼけてコーヒー豆入れてないのにコーヒー沸かしてしまう時だって一人である。原則的には。
しかしですね、嘘ですよ。
こないだある方と話していてね。
その方が言うには
恋人との理想のシーンとして
旅行に行って、お互いが好きなことをやっていて、
お互い同じ空気を吸っているのが前提で
それがそれとしてきちんと独立して成立している、というようなシーンを挙げておられて、
「なるほど!」と思ったわけです。
つまり、具体的に言えば、例えばバハマに行ってね
男はビーチでガッスガス泳ぐわけですよ。
で、ビールを飲んで身体を焼いている。
彼女は、ひたすらサガンを読書して、たまにピナコラーダで唇を浸す。
お互いに会話はないわけです。
なぜならもうかれこれ数年の仲だし、バハマも3日目なわけですから。
で、お互いが独立した事象をこなしているのに、
しかし、同時に、お互いが同じ領域内に存在している。
これが、その理想像、というわけです。
成程。
また、SoWhat?的なことを書いてしまった。
なんかの話に続けないと。
えっとですね、
つまりは、そういうものではないか、と。
一人が好きという者は基本的に
Let me goというよりも、
Never Step inという感じのニュアンスの方が強い。
つまり、自由にさせろ、というよりも、侵入するな、というか。
だから、逆に言えば、侵入がなければ
それHAPPYなわけで、その時、ついに
1人好きと、さりとて1人は寂しいというジレンマが解消されたことになる。
なるほど合点。
まぁ、これが良いか悪いかは別の問題としても、
それはそれで完結した素晴らしき世界哉。
そうだ。
これまた、前誰かが言っていたが
「恋人がいる効用は、土日の予定をむりくり入れずに済む」と
仰っていた。
これは目から鱗のすってんころりんでしたよ。
つまり、まぁ、特に社会人にとって
せっかくの土日ですから
2日とも家に篭るのは宜しくない、と。
しかし、さりとて、誰かのアポとって出かけたりするのは
非常に億劫だと。
それはまさに、時に時間を埋めるためだけの行為になり
本末転倒、と。
しかし、恋人がいれば、
まぁ、基本は、その土日に予定を入れれるわけで、
非常にらくチンポン、と。
成る程、と。
そういう意味では恋人というのは
友人と違うのは、肉体的なものとか、契約的なものとかの形而下的な違いよりも、
「相手の領域に踏み込んでも良い」というメタフィジカルな点で
恋人という存在は特異たりえるのではないか、と思った次第でありますよ。
つまり、例えば、
夜中の2時に、仕事が終わって疲れて
誰かと会話したいとなった時に
友人にいきなり平日の26時に電話するのは、ヘジテイトするわけですよ。
しかし、恋人へは、その不可侵条約の撤回が可能だと。
君はそういうわけだ。知らんけど。
いや、恋人だろうが、恋人でなかろうが、あるいは肉親だろうと
26時の電話はあれですよ。
流行の言葉で言うならば、アバンギャルド過ぎますよ。ええ。
ここまで書いて、放置してたら2日も経っていた。
すでに何を書きたかったのかは愚か、
自分が書いた文章かさえも怪しくなってきた。
ブログはいっきに書かないと駄目だね。
あ!しかもリモートだからいつものライブラリが使えない。
しまつた
もう何がなんだかわけのわからんエントリになっている。
そういえば、最近、独り言というか、話している最中に
独り言になる機会が多くて困る。
所謂 尻つぼみ系?
まぁ、いいや。
んと、自室が最高、と。
なるほど。
もう週末とか、ひたすらゴロゴロするほどの快楽はありや。
ある天気の良い日曜とかさ。
意外と朝早く起きたりしてさ。
で、洗濯とか、クリーニングとか、片付けとかやっちゃうの。
普段は1杯しか飲まないコーヒーも2杯くらい入れちゃって。
思わず、紅茶なんかにもしちゃってまた。
普段は飛ばす新聞の社会面も読んじゃったりして、あれまぁ、と。
散歩とかさ。
カメラ持って近所をお散歩。
公園もいいけど、最近は萎びた所もいいとおもつた
街はNGですね。
人多いと、前提条件なく不愉快になる。
あれなんだろうね、頭痛するし。CO2の力か。
人がまばらな所。駅沿線とか、少し片田舎の商店街とか。
で、昼寝。
シエスタ。
人生の極み。
わが栄光の5分間。
そりゃ寝ますよ。
日曜日ですもの。
ガツンと昼寝ですよ。
日向にうずくまりながら
楽天で買ったビーズクッションを抱いてひたすら石のように
うとうとしますとも。
目が覚めたらハーゲンダッツを食いますとも。
ええ、そうですよ。
そうして、ぼーっとしていたら
あっというまに週末は終わりますけどね。
夜になってあわてて、週末の帳尻を合わせるように活動的になったりさ。
焼きそばとかも食べちゃいますとも。
無駄に長風呂とか入っちゃいますよ。
風呂で本とか読んじゃいますよ。
風呂上りは水ですよ。
まぁ、一興じゃないですか。
あかんなぁ。こんなわけのわからんことをかきたかったんじゃないような
気がしますけどね。
そういえば、最近、涙もろくなっていることに気づきましたよ。
理由は何もないんですけどね。
年かね。
ふとした懐かしい音楽とか匂いで涙腺ゆるみますよ。
あと、人の写真とか見たりして。
あれ、なんでですかね。
涙腺キャンペーン中ですかね。
あと最近「再読する価値のない本を読む価値はない」というテーゼを述べる人が
いて、そういうもんかな、と思っても
再読に耐えうる本なんて、殆どないですね。
難しいですね。
むしろ地球の歩き方とかの方が再読しちゃったりして。
あと、最近思ったこと。
芸術とは、独立して存在しうるのか
あるいは理解する者がいて成り立つものか。
この命題は、昔から言われているのかどうか知らないけど
言われていても不思議ではないと思う。
ともあれ、ある写真家を見ている時に思ったんです。
絵とかもありますよね。
特に現代美術。あるいはモダンアート。
わけがわからないの多し。
絵も音楽も劇も・・・・
で、それとは別にあるように思うわけです。
いわば全員が全員理解できるようなアートと、
絶対的な何かが存在しているのだけど理解できる人が限られている世界と。
そもそも絵で見るとわかりやすいような気がするのだけど、
印象派とかの絵は、よさってわかりやすいわけですよ。
主観だけど。
もちろん、ルネサンス前後とかも解りやすい気がする。
他には、写実派とかさ。あ、レンブラントは個人的にはイマイチぴんとこない。
でもさ、
シュルレアリスムは、まだ解るとしても、ピカソとかマティスとかのキュビズムとかになってくると結構しんどいような気もするわけですよ。
まぁ、でも、背景と意図さえ理解すれば、わかりうる、と。
しかし、時に、もっとマイナーな世界。
例えば、小説だと、それこそ村上春樹の世界が全くピンと来ない人がいるようにさ。
どうでも良いけど、最近、スタンダールの「赤と黒」を読んだという方の話を聞いた。ヘミングウェイとかロシア文学を読む方は多いとしても、
妙齢の方で、スタンダールは渋い。
個人的な記憶では、スケベな坊さんの話だった気がするのだけど
あんなの宗教的背景理解してないと絶対理解できないわけですよ。
その点で、日本人は、絶対的に、西洋文学や西洋美術を理解できないという指摘も有る意味では理解できる。
宗教観のない人に宗教の世界は理解できないという理屈らしい。
まぁ、でも処女だろうがバナナボーイだろうが、高橋がなりや団鬼六の素晴らしさは理解できると思うので一概には言えないけれど。
ともあれ、でも、芸術というのは
そのように理解しにくいとかではなくて
まったく誰も理解しなくとも
当人だけが理解していれば、それは芸術たりえるのか?
という個人的疑問ですよ。
これが科学とかだったらわかる。
アリストテレスやアインシュタインの当時には、誰も理解できなかったけど
(相対性理論は3人だけ理解できたんだったっけ?)
後世には理解されたように。
ああ、芸術もあるか。
ゴッホは、生前は殆ど理解されなかったんだっけ?
1枚は売れたんだったかしら。
嗚呼、そう考えると
芸術は、誰も理解しなくても、存在しえるとは言えるのか。
あるいは、後世に評価されるという可能性さえ残していれば
その反証を提示することは、原則不可能ですよね。
しかしですね
それだと、公開されないブログのエントリーはどうするわけですか。
救いがないですよ。
陽の目を見てやっと言葉ってのは、生きるんじゃないですかね。
多分、違うな。
言葉は己のためにもあるものだ。
でも、不思議ですわな
言葉って、コミュニケーションツール。
つまりは媒介、あるいは媒体なわけです。
つまりのところ、他者にメッセージを伝えるための手段。
確か、世界で最初の言葉って、何だったっけ?
「おい」だったっけ?忘れた。
ともあれ、言葉ってのは、他の人のために生まれたわけですよね。
しかし、今では、自分が概念を理解するためにも
言葉を用いる。
つまり、他者のためでないとしても言葉は自分のために欠かせざるを
えない。
これってば、本末転倒ではないか、と。
人間は考えるときは、「表面上」は言葉に頼って活きている。
つまり、自分が言葉を生み出して読み込むスピード以上に
考えをすすめることは出来ない。
もっとも、これは表層上の出来事で、
実際は、無意識下で、物凄いチューニングとかチャネリングとかゲーリングとか
行っているわけだから、
見かけだけだけど。
でも、やっぱり思いつきとかひらめきは
言葉に一度落とさないと把握しきれない部分もあるわけで。
これってば、非常に制約。
つまり、自分なりの言語で物事を理解できれば
もっと、思考プロセスはスマートになる気がするのですよ。
前述のように、言葉tってば他者のためのものでしょ。
それを転用しているだけだから無駄が多い。
そもそも言葉が出来る前ってば、人間はどうやって考え事していたんだろうねえ。
興味深い。
図?絵?イメージ?
しかし、でも、やはり絵の方が情報量が数百だか数千倍になるように
絵とかで、色んなものを考えられたほうが処理能力が早くなりますよね。
さらにどうでもいいけど、ジョディーフォスターが出ている映画
なんだったけ?SF映画。マシューマコノヒーが出ているやつ。
あれに出てくる話で、文章が三次元化されているのを見たけど
あれ素晴らしいね。
つまり、絵を二次元に描いても、それは二次元なわけですよ
そうではなくて、文章を立体的に構築する(ホログラム的に)
そうすると、素晴らしく情報処理の効率や容量があがる。
あれ素晴らしい。
話とんだな。
あと逆に、メッセの記号の豊饒さというんですか。
あれもすごい。
明言しないからこそ、相手の言葉で相手が理解するしかなく、
その「遊び」の部分に、より豊かな情報が存在しうる。
そう考えると携帯の絵文字も新しい言語手法なのかもね。
それたそれた。
なんだっけ。
ああ、そうだ。
言葉は他人のためのものなのに、自分の限界も、その言葉という
ものに規定される問題。
だれだったかなぁ
片山右京?うそだ。
まぁ、誰かも言っていた。
「思考は語彙に規定される」と。
新しい概念ってば、生み出すのは大変で、
同時に、伝えるのは非常に労力がいる。
例えば、「ご愁傷様です」という言葉とか、
翻訳するの、結構難しいですよね。
「お疲れ様」とかさ。
あれは、他の言葉の代用がかなり効かない。
でも、それを表現する言葉(プロトコル)さえ知っていれば
一瞬で話は通じるわけですよ。
その点で、語彙は思考を規定するわけです。
だから言葉を知らないということは
単純に物事を知らないということと同義ではなくて、
自分のスペック(CPU的なものか)が、比較的に劣勢になってしまう
恐れがあるわけです。50ccのようなものだ。
勿論語彙だけがあっても仕方ないけど、
メモリは上げておいたほうが良いのと一緒で
エンジンは高性能にしておいたほうがいざという時に事故らないわけです。
で、言葉はどうでも良いのだけど、
芸術だ。
写真とかもさ
わかる人はわかるよ。
でもさ、良い写真といわれているものでも
理解できない写真って多いじゃないですか。
まぁ、写真マンの友人いわく、多くの写真見てれば
良い写真は必然的にわかるらしいけれど。
こないだとあるマグナムの方の写真展いったんだけど
どうしても半分くらい構図が理解しにくい点があって悩んだ。
ともあれ、そういうのって構図だとかのよさとかさ。
光とか対象のよさってばわかりやすいけど
構図っての、かなり理解しにくい概念で。
例えば、ロートレックは、有史一、構図が素晴らしい画家といわれているけど
有る程度は理解できたとしても
完璧さ、というものは解らない。
あの踊り子は、もう少し右からのほうがいいんじゃないかとか
素人目に思ってしまうわけですよ。
まぁ、いいや。
で、ともあれ、そういう理解されにくい芸術は良いとするさ。
理解する人がニッチでもいれば。
でも、まったく理解されないもの。
あるいは誰の目にも触れていないもの、ということでも良いかも知れない。
それは芸術たりえるのか。
ゴッホの例は実は、
ゴッホが書いたときはそれが芸術ではなくて
あの絵を買った人が登場した瞬間、芸術になったのではないか、とかも
思ったりするのだけど、結論は出ていない。
最近の気になる命題でした。
ではではご機嫌よう。

コメント (6)
こういう散漫的なかずの文章って
読んでいて心地がいいのでとても好きだったりする。
投稿者: けんすう | 2006年09月26日 20:55
日時: 2006年09月26日 20:55
きゅわぁ。
今日のメッセの写真は笑った!
コメントありがとう!
敢えて、今回はどれだけ永く書けるかに挑戦してみた。
ひどいね、これ。
そりゃ龍吾も長すぎ!って怒るわ。
お褒め頂恐縮です。
散漫的に書くほうが早いのだけどね。
でも、読みにくいよねえ。ありがとう!
投稿者: 原田 | 2006年10月01日 20:14
日時: 2006年10月01日 20:14
初めて面白いなあというブログに出会いました。ありがとうございます。
投稿者: miko | 2006年10月01日 23:53
日時: 2006年10月01日 23:53
上のけんすうさんコメントにagree.
原田さんのゆるゆる感溢れた文章が好きです。
このエントリー、おきにいり登録しました。
へろへろへろー。
投稿者: はあちゅう@香港 | 2006年10月04日 10:29
日時: 2006年10月04日 10:29
お!はあちゅう元気?
ゆるゆる好き多いねえ。
じゃあ、それに刺激され、今から1本書いてみます。
お気に入りまで入れていただき
原田、至極感激で御座います。
コメントありがとう!
投稿者: 原田 | 2006年10月05日 02:09
日時: 2006年10月05日 02:09
>mikoさん
コメント見逃しておりました。申し訳ありません。
ありがとうございます!
暖かいお言葉ありがとうございます。
こちらこそ、どうぞ宜しく御願い申し上げます。
投稿者: 原田 | 2006年10月09日 20:46
日時: 2006年10月09日 20:46