
昨日市ヶ谷で友は言う。
予定調和な女が多い
至極明言。
世界とは予期せぬ言葉を求めている。
不協和音や破綻ではなく、嫌、或いはそうなのやも知れぬが、
寧ろ、不得容量に潜む夢が求められている。
世界は虚ろ常ならぬ故に、邯鄲の夢故に
そこに浪漫を求めうる。
ポーカーで言うならばツーペアのCall
麻雀で言うならば平和一盃口の面前
チェスで言うならばクイーンでクイーンしチェックする様な
そんな手慣れたものは要らぬのだ。
対で杯を傾ける時にはゲド戦記の話は無用なのだ。
そして市ヶ谷で誰かは云う。
近頃、良き男は恋人持たぬが潮流と。
はて、と左脳を擦り瞼を閉じる。
周りを見ると確かに。
長髪の君は春に新しい道を選び、永沢の君は常なる女持たず。
眼鏡の君は今夏に別離を選び、同期の友は先月道を別とした。
そして新しい道に八黒目指す君と六九を目指す君。
そして至極最近分かれた君。
勿論、仲睦まじく暮らす君も要るけれど、
彼らは孤の道を選びたもう。
さてはて。
上記を私自身が賛同するかは別の話としても
非常に興味深い話だと心得た。
其処でポートフォリオ、といふ物を想起する。
彼らが人生のポートフォリオを組んでいるのではないかと考えたからだ。
ビジネス、プライベート、時間、夢等のポートフォリオの結果、彼らがそこに居る。
ポートフォリオとは言わば、「卵は一つのバスケットに入れるな」と箴言。
卵を1つの入れ物に入れて居ると、其れ落とした時に卵は全て割れ砕け散る。
其のリスクを回避する為に、卵は色んなバスケットに入れて置いた方が良い、と。
それを株で云うと下記となる。
ポートフォリオとは - はてな
互いにリターンの相関が低い資産を組合わせて保有することで全体のリスクを低減できる、というのがポートフォリオ理論。
これは人生のどの局面でも言える。
例えば受験。
世界史に関して、唯、戦後史を学ぶのはリスクが高い。
30年戦争を学び、漢の時代を学ぶ訳で有る。
更に解かり易いのはルーレートであらう。
oddだけに掛けずRed/Blackにも賭けるが資産分散である。
さすれども逆に「ここぞ」という時に張らねばならぬ事もある。
例えば就職活動での面接。
10の体験を言うよりも、絞った方が良いと言う。
つまり、其処には時間といふモノの制限がある故に。
時間という制限があれば試験も話が変わる。
30分しかなければ不定冠詞のような厄介なモノに手を付けるよりも
単複同数の単語を片端から頭に叩き込んだ方が良い場合が多い。
また、逆に「冬の時代」の越し方も存在する。
ツキが落ちている時は、その風雨を避けなければならぬ。
黙って耐え偲ばなければならない。
ポーカならばツーペアでもDropせざるを得ない時もある。
麻雀で言うならばイーシャンテンでも降りる時は降りる。
ゴールデンクロスが見えても売らねばの場合はある。
ラブホまで入っても生理になる事はある。
目覚ましかけても鳴らない事はある。
そのような厳冬の時代は、
じっと耐え忍ばねばならない。
そしてツキが回ってくるのを待つ。
そして、「ここぞ」と言う時に全てを張る。
その時までじっと耐えるのが重要なのだ、と。
しかし、この考えはポートフォリオ分散している場合には起りにくい。
無論、アベレージが凹んでいる時は、この事態は起りうるが。
ここで最初の話に戻る。
恋人持たぬ彼は、冬の時代か、あるいはポートフォリオを組んでいるのか。
もう一度最初の言葉に戻る。
「世界は予定調和なんて求めていない」
つまり、リスク分散する人生は賭博師として詰まらない、と君は言う。
機内で阿刀田高の本を読んでいると、丁度かのような話が出てきた。
今が賭ける時、そのタイミングを見誤らない事が肝要だ
そして今日。白川道の本でこのような言葉を目にする。
「恥をかくのは一回と決めている。付き合わないか」と。
「一回口に言ってだめだったら、二度とは誘わない」
経験則から言うと、このような博打は
単なる合理性の追求でしかない、と思うのだけれど
自身への戒めとしての言葉ではなく
事前にこう宣言して行う言葉ならば、
それはそれで互いを縛る何かがそこにはあるのだろう。
一度、口に出した言葉は二度と取り消す事が出来ない。
覆水盆に還らずという言葉は、まさしく言葉に於いて生ずる意味ではなかろうか。
村上は言う。
「ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。
口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ
ネガティブな言葉の吐露も
あるいは、アグレッシブな言葉でさえも
それは一度世界に放たれると籠に戻る事はない。
言葉にするってのは全身全霊を賭けた「きった張った」の世界なんだ、と
改めて思った。
坂口安吾は言った。
あちらこちら命懸け
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コメント (2)
お久しぶりです。
原田さんの最近の日記で、この日記が一番好きです。
予定調和なオンナも多いかもしれませんが、
人生が予定調和に収束するであろう、と思っている人も
かなりの数、いるのだろうなと思いました。
人生が予定調和に収束した場合、果たして幸と言えるのか不幸と言えるのか。
人って無いものねだりなのかもしれませんねぇ、やっぱり。
投稿者: ミナミリョウ | 2006年08月30日 14:47
日時: 2006年08月30日 14:47
わぁ、ご無沙汰しております。
麻布十番納涼祭りいかれたんですよね?
僕はそもそも駅に行くのにあの人ごみにまぎれて
泣きそうになっていました。
さて、人生が予定調和であることか
ハッピーかアンハッピーかという命題は
まさに、最近感じたことです。
イレギュラーなものがあるからこそ人生は楽しいという見方も出来ますが、さりとて確固たる地盤、つまり安定した幸せな家庭的な何か、トルストイが「一様な幸せ」と形容した幸せも、絶対的な価値としてそこに存在しますし。
仰る通り、ないものねだりなんでしょうねえ。
保守と革新のように。
コメントありがとうございます!
投稿者: 原田 | 2006年08月30日 20:56
日時: 2006年08月30日 20:56