傾向として
合理主義者というか、
効率至上主義的なところがあった。
だから、遠回りとか、
冗長なものは苦手だった。
それゆえ、ロシア文学も苦手だったという
三段論法も可能だが、ここでは、述べない。
ちなみに、このパラグラフは遠回りである。
たとえば。
例えば、推理小説。
推理小説では、風景描写なんて
必要なかった。
そんなのは純文学に任せておけばよい。
推理小説では、適切な謎の提示と
回答さえあればよかった。
しかし、往々にして、推理小説の大半は
余分なもので出来ている。
そんなのを、カッ飛ばしていたから
速読できたのかも知れない。
オッカムのカミソリが私の
人生指針であり、基本原則だった。
「現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、
よりシンプルな方を選ぶべきである」
だから、レストランで食事を
選ぶのも、とても大変だった。
いかにシンプルたれ、という原則に従えば、
「白飯」が、ベストソリューションだからだ。
それゆえに、今も、飯のオーダーは
優柔不断である。
これは、エクスキュージョンであり、
蛇足である。
さて、そんな推理小説の骨格だけを求めたとしても、
別のジャンルには、またある種の遠回りを
求める傾向があるのは
反証として、認めざるを得ない。
例えば、村上春樹を読んでしまうわけだが
彼は「オプショナル」な修辞法で満ちている。
いわば、シンプルではない。
それでも、その「余り」に惹かれてしまう。
これは分析するに
その余りがメインになっているからこそ、
の構造である。
すなわち、本筋たる「ドラマトゥルギー」が
余分な存在として存在してしまうのだ。
だから、ノルウェイの森の最後が
仮に直子が生きていようと、いましと
どちらでも構わないし、
スプートニクに至っては、
あの電話が夢であろうと、現実であろうと
どちらでも構わないのだ。
人生も、
the simpler, the better the life
という按配になるのだろうか。
昔はそう考えていた節もあるが
最近では、人生はそもそも
「オプション」であるゆえに、
人生から無駄をそぎ落とすと
何も存在しえなくなるのではないか、
という存在論に関わる疑問に気づいたため
深く考えるのを辞めた。
でも、やはり
世界から余分なものを取り除くと、
ありとあらゆるものがなくなって。
最後に残るのは
なんだろうと考えてはみたけれど、
ヒトサマよりも、とりあえずサボテンのほうが
地球に優しいという意味で
残るのだろうと思った。


コメント (2)
もう20年くらい考えちゃってます。
どうしても植物になっちゃいたい、となるんだよね。
う〜む。
投稿者: アイバミカ | 2006年04月06日 10:06
日時: 2006年04月06日 10:06
おお!
20年ですか。お疲れ様です。
植物はいいですよね
「犬は何も考えないからいい。犬になりたい」という
先輩がいましたが
やっぱり究極のところは、植物のような気がします。
うーむ。
投稿者: 原田 | 2006年04月06日 18:59
日時: 2006年04月06日 18:59