「語りえぬものについては、口をつぐまねばならない」
と言ったのは言語学者の大家ヴィトゲンシュタインだ。
もっとも、これは、「わからないことに関しては黙れ」という意味ではなく、
「言葉として、ある対象として存在し得ないことに関しては、
言及するのが、そもそもとして不可能なのである」的な
ニュアンスだったような気がするが、忘れた。
でも、彼の本は箇条書きで読みやすいけど、理解はしにくいが
とりあえずカッコイイ。
さて、それはともかくとして。
以前まで考えていたことはこうだった。
日本国民の権利である国政「選挙」に行かない者は、
日本の政治に関して、文句を言う権利はないのではないか?
ということだった。
つまり、自分が、その結果を決めるためのプロセスに参加もしてないのに、
その結果に関して文句をいえないのではないか、ということだった。
これを某日記に書いたら、色々反論を拝聴したので、それ以来
少し考えていた。
似たものとして
「年金」を払っていない者は、
年金制度に関して文句を言う権利はない、
とも思っていた。
だから、僕は嫌々ながら、ナンセンスとしりつつも年金を払っている。
制度にケチをつけるのは、制度の中に居る者の声が一番
説得力があるからだ。
このような一種の極論を演繹すれば
「恋愛をしたことのない者は、恋愛について語れない」や、
「社会に出たことのない者が仕事に文句を言えない」というような
様々な使い方が可能である。
さて、この仮説は、妥当かどうか、というところだ。
正解も間違いもなく、一種の信念的なものだから、
結論は必要ないのだけれども。
ただ、個人的には
やはり、「言葉」というものの力は外部より内部から発せられるほど
相対的に力を持つ傾向にあるという経験則から
どうしても、上記の考えを持つにいたるわけである。
普遍性を全面的に肯定することは出来ないけれど。
だから、日本の社会に文句言うならば
一度くらいサラリーマンになろうと思って、
就職をしたという経緯もある。
(就職活動しようとした契機がそれであって、現状の仕事へのモチベーションは
それではない)
就職活動はクソだ、と言えるのは
それを経た者なのである。
もちろん、権利なんてものは、そもそも誰にもないのかも知れない。
「僕は、君に許してもらう権利なんてないけれど、
僕は君が好きだ」というのは、何かの小説のセリフだが、
そのセリフに関して、彼女はこう答える。
「誰も権利なんてないのよ。誰もそんなのわからないわ」というようなことだった。
誰しも、何に対しても権利なんてないのかも知れない。
もっとも憲法では、保障されているけれど
そんな話をしているわけではない。
参考
三大義務は勤労、納税、子供に教育
三大権利は生存権、教育を受ける権利、参政権
限度も境界もあるのはわかる。
例えば、上記の仮説を肯定するならば
我々は「死」に関して何も語りえなくなってしまう。
それでも、やはり、外野の声は
あまりにも安全な位置から発せられた何もリスクを取らない声ゆえに、
時に、か細い。
というようなことを考えていた若き日々。
以上。おちなし


