物事の中立化
漠然と思うだけなのだが
最近、物事が中立化しているような気がしないでもない。
中庸ではない。
ジャストアイデアなので、別段、
論拠があるわけでもないのですが、肌感覚として。
例えば。
例えば、「ネットで偏ったこと」を書いたとする。
その場合、他者からの批評が入り、
偏っている部分は、丸くなる余地がある。
(余地があるだけで、なるかどうかは別)
つまり、極論は、極論として言っている人以外に置いては
「それは極論ですよ」と
修正される余地が生まれている。
昔と比較するのもあれだけど
やはり、ネットというものは「誰にでも見られる可能性」があるという点で、
ひと昔前の紙メディアとは
可能性の程度において違いがある気がする。
つまり、昔だと
「極論で御座います」とチラシの裏に書いていたものが
今はオンラインになることにより、
それが修正される余地を生む。
とは言え、敢えて偏っている人は別だけど、
あくまでも「無意識で偏っている人」における場合は。
で、まぁ、それは単に卑近な例だけど、
政治ではどうかしら。
昔から、裏の業界との近接性などは言われていました。
しかし、昨今は、さらに圧力団体が強いように思えるのは
気のせいかしら。
ロビイストだけでなく、NGO、NPO、あるいはプロ市民などなど。
それらが増えてきた理由を、ざっくり考えると
昔より、メディアの量や質が変わった可能性と、
あとは余暇時間が増えた人が、増えた可能性などが
思い当たるわけですが、証拠はない。
で、それにより、政治も、常に「監視」の目があるために、
極端なことは出来ないようになってくる。
レイヤーをずらすと、
Google先生による中立化はどうでしょうか。
Google先生以外のサイト検索だと、
(例えばカテゴリー検索だけに限らず、手動のものや自動のもの)偏りは偏りとして
存在していたわけです。
んーと、なんというか、
「フィッシングサイト」的なあくどいサイトが自分で登録することも出来たし、
しかし、Google先生に代表されるアルゴリズムだと
リンク数からPVから経過時間からドメインから重みからと
様々な点で、そのサイトが持つ特徴を数値化して
客観性をもたせるわけです。
そうすると、極端なサイトは、排除されてしまうわけで御座います。
ネットで言うならば
Wikipediaもそうですね。
オンラインの辞書ですが、
みなが編集できるために、
ある言葉に偏った意味が付与されれば
それは他者により修正される。
中立化。
オープンソースとかもそうではないかしら。
極端なコードは、それがデフォになることにより
分布図の中央が、そこにずれて、
そこが中心になり、結局、中立となってしまうパラドクス。
イデオロギーとかも、
メディアの翻訳機能により、
よりわかりやすく=中立化している感じがする。
昔は、例えば共産主義を知るには、
テレビ見るのではなく、
資本論読んで、毛さんの本(修正共産)を読んで、って感じなわけですよ。
しかし、今は、そのようなメッセージは
メディアというまさしく媒体により、
「より普遍化」されてしまうわけで。
そこで、中立化が始まり、
もしかすると、それを利用しようとするイデオロギーにとっては、
そのフィードバックにより、中立化されるスパイラルが起こる可能性が。
原理主義は、流行らないのかねえ。
でも、同時に中立化が起こると同時に、
メディアの多様化や、「資金、時間的余剰」の増加による原因で、
価値観の分散化も起こっているわけで、
そこでは、より深化されるから、
そこは非常に大きな偏りにはなるような気もする。
ゆえに二極化しているという結論は
あまりにもイージーだし
So What?だからなぁ。
「中立」という言葉が悪いのかしら。
凡庸化?違うなぁ。
標準化?違うなぁ。
うーん。
まとまってないのに、ごめんなさい。











昨日、卒業式だった。

このアルバムと並ぶ和製音楽は、後にも先にも「BGM」だけ…























