TB月間 6
先日、マスコミに関する記事を
少し書いた。
で、元は、A美の下記のエントリーに影響されたものだった。
で、コメント欄にA美のズバリの素敵な指摘があり、
それで、さらにこちらで続行。
僕が問題提起したのは、
テレビというのが社会の鏡であると仮定するならば
それが移しているのは「社会」であり、
テレビが悪い場合は、社会が悪いのではないか、
という論旨だった。
(もちろん、あくまでも1つのシニカルな仮説として)
で、A美の指摘は、
社会は、同時に、テレビからの影響も受けるならば、
一概に社会だけの悪さに起因するのではなく
デフレスパイラルが起こる、というような指摘だった。
確かに。
それが、おそらく、
「テレビ」がライセンス制であることの証左でもあるのだろう。
マスメディアは、多分に強い影響力を持つのだ。
それゆえに
記者は「社会の木鐸である」といわれてきた。
もっとも、この辺は「ニュース」のバリューの方に
問題がシフトしてくるので、
この辺の混同がややこしいのだけれども。
では、話を戻して
テレビに限定する。
もし、テレビが、「社会に有意義な番組」だけを流した場合
その社会は「より良い」社会になるだろうか?
というテーゼを挙げる。
この場合の定義は下記。
「有意義」=あくまでも「有意義である」という内容の精査は必要のない記号としての有意義
「より良い」=ソクラテスの言う「より良い」あたりが妥当かと思う。
つまり社会に「イデア」が存在すると仮定した場合の、そこにいたるプロセス。
では、「有意義な番組」を、CXが流したとする。
シオドメでも、六本木でも赤坂でも良いが。
その場合、「有意義な番組」を
視聴者が見なければ、資本主義の構造を内在するテレビ局においては
その番組は打ち切られると考えるのが妥当である。
(例外もあるが、一般的には)
では、社会に影響を持つ場合には、
それが「より多くの人が見て」、かつ「より長く見る」という
2つの条件が、必要条件として存在する。
その条件を満たす要因として、
簡単に記号化するならば、
「おもしろい」番組である。
(記号なので、おもしろいの内容は定義しない)
では、上記の要綱を満たすには
「よりおもしろく」かつ「より有意義」な番組を作成しなければいけない。
しかし、ここで考えられるのは
2つは、共存する場合もあるが、
背反する場合もあるということである。
背反した場合、
テレビは、資本主義の定めに従って、
「よりおもしろい」ものを取るのが、大前提である。
もし、共存するならば、
現状は、そのような番組のみ流される。
そして、現状が
そのどちらかどうかを分析するのは難しい。
なぜなら、「より有意義」「より面白い」は
価値の問題であり、いわばヴェーバー曰く「神々の闘争」であるから
客観的判断は出来ない。
ただ、わかるのは
「すべて共存する」あるいは「すべて背反する」という
答えは、可能性としてはあるけれど、
現実問題としてありえない。
なぜなら、上記の価値の問題が
主観に依存する以上、
主観の多様性が存在する限り
「万人にとっての」「より面白い」「より有意義」は
存在しないと考えるのが妥当であるからだ。
では、次に、どういう切り口を持てば良いだろうか?
ここで出てくる検討すべき題材としては
「テレビ側」の人間は、どういう意識で流しているか?
ということである。
もちろん
彼らも「よりおもしろく」「より有意義」な番組を
流そうと考えるのは
人情的にも妥当である。
しかし、どちらかに比重を重くする必要にかられた場合、
彼らが「より有意義」に重点を置くと、
そこにはリスクが存在する。
つまり「より有意義」なものを優先し
「おもしろさ」が失われる=資本主義が抱合する倫理的問題
である。
これこそ、今、LDでも見られる問題である。
資本主義の絶対的価値=金もうけのためならば、
社会的責任は、は罷免されるのか?
という可能性である。
違法の場合は
答えは、もちろんNOである。
しかし合法の場合は
答えは難しい。
会社存続のためにとった行動で、
かつそれが合法ならば、
道義的責任は、回避されうるという可能性はありえる。
例えば、
1個人が道を歩いていて
前で、おばあさんが苦しそうに倒れているとする。
そこで個人は、どういう選択肢があるだろうか。
見過ごして、そこでおばあさんが死んだとしても
有罪になる可能性は、かなり少ない。
(カルネアデスの板の判例もある)
そして、法というものが社会的道徳を成分化したものだと考えるならば
自己の存続のためならば、それが他者に影響を与えない限り、
その権利は保持されるという法の意図が汲み取れる。
それが、会社においても同じことになろう。
もちろん、株式なる会社において
「合法だけれども、叱責されるべき」行動をとった場合
株価への影響から、それは、クビを占める行為だとも考えられるけれども、
それは、あくまでも可能性の1つでしかない。
さて、それで、再度テレビに戻ると、
テレビは、「より有意義」なものを流そうとするのは
よりリスクをとり、そしてリターンは少ない行為となる。
(社会が有意義になっても、テレビとしてのリターンはプラスになるかどうかは
その時点では、わからない)
つまり、
「より有意義」なものを流そうとする行為は、
「常にそれがおもしろさ」と共存するという条件でない限り、
無駄にリスキーな行為となる。
(あくまでも、株式会社として)
で、まぁ、現状としては
程度の問題で、その辺にジレンマを抱えながら
行われているのは見ての通りだけれども、
原則としては、上記のようになってくる。
ああ、お知り合いにテレビなどのマスコミ関係の方が
ある程度いらっしゃるので、非常に書きにくい。
でも、とりあえず僕はマスコミは、とても興味ぶかいと考えている所存。
で、そろそろ落とそう。
ウッディ=アレンの言葉を1つ。
「テレビは、頭をよくする。
なぜなら、嫁さんがテレビをつけると、僕は書斎に引きこもるからだ」
A美、的確な指摘ありがとう!!
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