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海と母

沖縄の海を眺めていた。

何するわけでもなく、単純に眺めていた。
眺める、というのは、それ自体に目的もなく、
そして、その行為自体が目的になることもない。
ましてや、何かの帰結で眺める、ということもなく、
そして眺めることが起因になる行為もない。

つまり、「眺める」という行為は
それ自体が独立した行為でありながらも、
同時に、それ自体に外的な動機を見つけ出すことができないという
特殊な動詞である。

眺める、ということは
気づけば行っているというものだ。
内発的に生まれる「受動的な」パッションという矛盾する行為だと
言っても良い。

そのように、僕は、海を眺めていた。

時間があった。
読書する場所を探しに、海外に向かったのだ。

風が強かった。
沖縄の冬は、暖かいけれども、泳げるほどでもない。

海岸には、まさに何かの物語のメタファーに成り得そうな
白い犬が、何かを探し歩いている。

風が吹き、犬が歩く。
他には、何も変わることのない絵。
そこが、沖縄の海岸だった。

その時に、はじめて、僕は
海の偉大さを知った。

突然、自分の胸の中に入り込んできた。
こう書くと、いささか修辞的で、好ましくないけれども、
そう形容するのが、一番適切だろうと思う。

正確に言うならば
「自分の心の中」が、海を捉えたのか
「海」が、僕の心を捉えたのか、そのどちらかは
わからない。

ただ、海を、ぼーっと眺めていると、
ある瞬間、フッと胸に海の偉大さが流れ込んできたのだ。

海は偉大だ、という言葉は
小説にも、絵にも、詩にも、歌にも、映画にも歌われて来た。
手垢にまみれたイコンだけれども、
それは、やはり、否定しようのない事実だ。

でも、僕は、その時まで
海の本当の力をわかっていなかった。

海は、僕が「頭」で理解していたものよりも
もっと雄大で、悠久だった。

つまり、想像を超えるものだった。

なぜ、僕が、その時、そのような感情を手に入れることが
できたのかは、まったくわからない。
体調とメンタルが、海とシンクロしたのかも知れないの。
完全なる偶然の結果として。

その時に、得た感情をなんと説明すれば良いのだろう。
陳腐な言葉で言うならば
「自分の悩みや思いなんて、海の偉大さに比べれば、なんと詰まらないことなんだろう」
というようなセリフにも似た思い。

何もかもが、全て受け入れることのできるメンタルがそこに生まれる。
海の持つ歴史と大きさは、
やはり、それほどの人間のアドレナリンとエンドルフィンを刺激するものなのだ。

漢字で、海は「母」という文字を含む。
逆にフランス語の海「Mer」は、母「Mere」に含まれる。

海は母なり。

大変なことがあったら、また海に来よう、と思った。







別の海岸


Originally uploaded by kazuhide.


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