まず、人生は儚いという仮説からはじめたとする。
儚いということは、短いということである短いということは、
時間が足りないということである短い方がいい、
というのはセックスの嫌いな女くらいしかいない。
で、こんな帰納法を続けてもしょうがない。
で、時間がなければ、どうするか?
人生に目標があるとする。
そうした場合、ほかのことを犠牲にしてでも、その目標に時間を費やす。
しかし、目標がなければどうするか?
その場合には、別になんらこまらない。
人生楽しんだほうが良いのである。
しかし、往々にして、日本の社会で働いていると、
仕事に時間をとられ自分の時間が確保できないのは事実である。
今、日本の社会、と言ったのはほかの国より事情を知っているからであり
「日本の社会だから」ということではない。
で、目標は、「あるべし」とはいわない。
この人生、何でもありなのがルールのようなので
別にあるなしの価値観は問題ではない。
しかし、若いうちは人生に目標があったほうが、
「らしい」のである。で、そのときかかわってくるのが幸せというものである。
こないだamyのレスに幸せとは目的でなく感情、
みたいなことを書いてみたがそれを考えると、幸せというのは、
目標になるべきではないのである。
しかし、普通に考えると目標達成をなぜ、志すかということやっぱり、
それなりに幸せというものが噛んでくるのが一般的である。
でも、もちろん例外はある。しかし、例外は例外として放置。
この世に例外のないものはない。
で、目標の設置は、どのような観点から決められるかというと、
それこそ各々の価値観にかかわってくるわけで非常に難しい問題ではあるが、
ぶっちゃけ、なんだっていいのである。
これは消去法で、定めることもできる。
あるいは絞ることもできる。
こんなことはしたくない、という観点からである。
ほかに人生設計なり、グランドデザインなりを考えてからの目的設定がある。
これは、人生に起こりうるさまざまなファクターを考慮しての設定である。
で、何が言いたいかというと、何もない。
いつものごとく、甘ったれ、という単語をタイトルにぶち込んで、その連想のまま書き綴っただけ。
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